J論 by タグマ!

日本代表の宿舎が学校だった時代があった…前田秀樹が語る日本サッカー苦難の歴史【サッカー、ときどきごはん】

 

現在の日本代表は華やかなチームだ
ヨーロッパのトップリーグで活躍する選手が集まり
きらびやかなピッチの上で
一挙手一投足に注目が集まる

だが日本代表のここまでの道のりは
決して平坦ではなかった
日本サッカー界が苦しんでいた時代は遙か昔というわけでもない
そんな苦難の歴史を知る前田秀樹に自らの歩みとオススメのレストランを聞いた

 

■一発のチャンスをモノにして4軍からユース代表へ

父は1958年に公開された映画「水戸黄門漫遊記」の格さんを演じた役者なんですよ。住んでいたのは京都の太秦です。周りは東映とか松竹とか大映とか。家はその真ん中にありました。兄は俳優さんの付き人をやったりもしていましたよ。

通っていた太秦小学校はサッカーが強い学校でした。そこでサッカーを始めて、蜂ヶ岡中学校でもサッカー部に入ったんです。ところが1年生はボールを蹴らしてもらえないんですよ。先輩たちがプレーしているグラウンドの周りに立って声を出すだけで。

それが納得できなくてね。「ボールを蹴れないし、試合もできなくてうまくなれるのかな」って。2年生になったら蹴られるようにはなったんですけど、そのとき同級生が国体の選手に選ばれたんです。

その子が朝礼で表彰されたのを見て悔しくてね。「自分もあそこに立ちたい。うまくなりたい」と決心したんですよ。3年生になったらレギュラーになったんですけど、今考えたら、そんなにうまくもなかったかな。

それでもサッカーでは名門の京都商業高校に入れました。ところがクラスには悪いヤツがいて弁当を取られたり、部内のイジメもひどくてね。先輩は何か気に入らないことがあるとすぐ「説教」だし、グラウンド横の高い金網を登れとめちゃくちゃな命令をしたり、いきなり顔に石灰を塗られたりしてね。

「なんでこういうのがサッカーと関係するんだ」って本当に頭に来てました。でもだいたいそういうことをするのは、試合に出られない人たちなんですよ。その欲求不満を下級生にぶつけていたんです。

そのとき、立場が上になっても下の人にイヤなことをしちゃダメだと心に刻みました。そして試合に出られないのがどれだけ辛いか、というのも感じたんです。

先輩の中にはいい人もいました。家が近くだった横谷政樹さんは練習が終わったあと、「おい、走りに行くぞ」と声をかけてくれて、一緒にトレーニングしてくれました。2年生から試合には出るようになって、3年生は国体の選手に選ばれて。ただ全国高校サッカー選手権大会は京都予選の決勝で洛北高校に負けたんです。

それでも同志社大学から誘ってもらいました。ところが父が「関東に行って揉まれなきゃダメだ」と言うんですよ。父が俳優だったから、「全国から選手が来る東京で勝負しろ」ということだったんでしょうね。

それで監督が法政大学に推薦してくださったんです。ところが法政はユース代表以上が入部できる条件だったんですよ。そのとき、3年生に日本代表に選ばれていた横谷さんがいらっしゃいました。それをいいことに監督が「前田を入れなきゃ横谷を辞めさせる」と圧力をかけて、名目上は「マネージャー」という形で入れてもらったんです。

ところが入ってみたらレギュラーどころじゃない。60人の部員はみんなユース代表なんかでテレビに出て顔を知られている人たちばかりなんです。最初はビビりましたけど、練習になるとやれていたと思います。

それでも4軍ですよ。サッカー部の練習は16時からスタートするんですけど、2軍ぐらいまでしか明るいうちに練習が終わらない。3軍はすっかり暗くなってるから走るぐらいしかなくて、4軍になるともう掃除か付き人かイジメの対象です。

武蔵小杉のグラウンドの横に寮があって、1部屋に2段ベッドが4つあって8人部屋です。1年生から4年生までが同じ部屋で、1年生は1部屋に1人か2人。掃除は当たり前として洗濯、マッサージ、昼飯を取っとけ、料理しろ。それでも1年生でもレギュラーになったヤツはいいんですよ。レギュラーじゃないとイジメもあって。もう辞めたかったですね。

だから夏に帰ったとき、母に「もう辞めたいと」と言ったんです。「サッカーじゃないよ、あれ。ろくにボールも蹴らせてもらえない」って。

母は「いいよ」と言ってくれました。父も「ああよかった、もう仕送りしなくてすむ」と言ってました。でもあとで母がこっそり教えてくれたんです。「あれは違うよ。お父さんはいつも神棚を拝んで、活躍を楽しみにしているんだよ」って。

それ言われたら辞められない。仕送りもしっかりしてもらってるんだから、もう一度しっかりやるぞって。それからは全体の練習が終わってからもトレーニングですよ。サッカー場とハンドボールコートの間の道路の街灯があるところでボールを蹴って。朝は食事当番がないときは筋トレして。

「やるだけのことはやろう、それでダメなら仕方がない」と思ってやってたら、その姿を見ていた4年生が監督に進言してくれてチャンスが巡ってきたんです。プレーはそんなにへたくそじゃないから、出してやろうって。

それで1年生の秋のリーグ戦、関東リーグの早稲田戦に出してもらったんです。でも、早稲田には勝った記憶がないというくらい法政にとって苦手な相手でしたね。ポジションは今のアンカーかボランチで、相手のマークが中心でした。自分としては手応えがありました。そして勝ったんです。

そのあと、その年の天皇杯にも出してもらって三菱と対戦しました。当時の日本代表のゲームメイカーだった森孝慈さんをマークしたんです。しっかりと抑えることができたんですが、最後はPK戦で負けてしまいました。結局その年の優勝チームが三菱でしたね。

それでもそのプレーを評価してもらったんです。三菱戦を日本代表のコーチだった平木隆三さんがご覧になってました。そこで「あの選手は誰だ?」と目に留まって、その一発のチャンスでユース代表に選んでもらったんです。 そこからはとんとん拍子で、すぐ一つ上の日本代表Bにも招集されました。3年生では日本代表にもなって、そこでやっと大学でもレギュラーになりました。

大学を卒業するときは日本リーグのいろいろな会社から誘っていただきました。ある会社からはすき焼きをご馳走になりながら勧誘されましたし、別の会社は契約金のような話をいただきました。古河は地味にサイコロステーキを食べながらの話でしたね。でも、日本代表で奥寺康彦さんや石井茂巳さんにすごく面倒を見ていただいていたので、その雰囲気のよさで古河に決めました。

 

■釜本邦茂さんに怒られたスルーパスの精度

憧れの日本代表でしたが、当時はお金が無かったですね。特に食事は大変でした。日本代表は千葉の検見川総合運動場で合宿をしていて、そこの食事は小学生の団体に出すメニューを一品加えたぐらいだったんです。ご飯とみそ汁はお替わり自由なんですけど、おかずは薄くて硬い肉でしたね。みんな「検見肉」と呼んでました。平木さんは千葉にお住まいだったので、奥様が自宅で料理を作って合宿所に差し入れしてくれたこともありましたて。

最初に合宿に行った時、平木さんから「お前は食べなきゃダメだ」と言われたんですけど、疲れて食べられないんですよ。仕方がないのでご飯に牛乳をかけて流し込んでました。みんな牛乳があまったら僕のところに「もっと体を作れ」と持ってくるんですけど、一番年下だったから飲みたくないものを押し付けてたんでしょうね。

そして3日に1回ぐらいは長沼健監督が選手を近くの焼き肉屋さんに連れて行ってくれてたんです。監督は食べないで、選手に「みんな食え!」って。たぶんポケットマネーだったでしょうね。それぐらいあの当時から日本代表監督は使命感を持っていました。

当時、「ムルデカ大会」という国際大会がマレーシアで毎年開催されていました。僕が初めて参加したのは1975年の大会です。ケガをしていたんですけど3、4日で治るという診断だったから招集されたんです。

今でも覚えているのはそのムルデカ大会に行く前の検見川合宿の出来事ですね。僕は中盤のゲームメイカーとして使われようとしてました。長沼監督がタッチラインにいて、監督が動いたタイミングでパスを出す、そして監督からFWにボールを供給するというトレーニングをやったんです。

その練習で釜本邦茂(ガマ)さんにキツく怒られました。自分ではいいタイミングだと思ってスルーパスを出すんですけど、カットされるとガマさんは睨み付けてがんがん言ってくるんですよ。

「お前が10本スルーパスを出して、オレが2点取れたとしよう。それでも8本引っかかったら国際試合なら4点取られる。だから国際試合ではスルーパスはもっと的確に出さなきゃアカン」。本当におっしゃるとおりです。他にもいろんな選手に大声や広島弁で文句を言われてパスが鍛えられました。

やはり代表のトレーニングは違いました。和気あいあいじゃないですからね。長沼監督は練習中は穏やかですよ。どちらかというと平木コーチが怖かった。でもそれ以上に選手たちの言い合いが半端じゃない。平木さんが言う前に別の選手が飛んできて文句を言ってましたから。特に広島弁は分からないから怖かったですね。

検見川では4人部屋なんですけど、リラックスするためのミーティングルームというか喫茶室があったんです。でもそこにガマさんとか小城得達さんたちがいて、怖くて一歩も入れないんですよ。

だから僕はベッドにずっと横たわっていました。それくらい怖い。鉄拳はないですけど、次元の違う迫力があったんです。それくらい一人一人がプライドと使命感を持っていましたね。

そしていざマレーシアに行ってみたら宿舎が学校でしたね。ベッドは板の上にシーツが敷いてあるだけ。ダニがいるからと日本から持ってきた殺虫剤を撒いて1時間ぐらい部屋に入らずに駆除しました。冷蔵庫がないから、日立の営業所から借りて設置しました。

部屋は2人部屋で平木さんと同室です。平木さんは朝5時ぐらいに「行くぞ」と起こしてくるんですよ。何をするのかと思ったら市場に行って食材の買い出しです。朝早くてタクシーが走っていないからヒッチハイクで行きました。

市場は独特の臭いがしてましたね。平木さんはいろんな露店に行ってオレンジやジャガイモ、エビがいくらか聞いて回わり、一番安いヤツを買って持って帰るんです。宿舎に戻ったら自分たちで調理ですよ。あの当時の監督やコーチは、練習だけじゃなくて料理までしてたんです。

ビールも買ってきて冷蔵庫で冷やしておいて、22時ぐらいに試合が終わって戻ってきた選手にビールと食事を出しました。だけどヤシの油が臭くてなかなか口に入らないようでしたね。食事を出し終わったら、サブの選手は学校のグラウンドでトレーニングをしてから寝てました。

 

■日本代表の内部にあった新旧のギャップ

1976年に長沼健監督が退任し、二宮寛監督、1979年から下村幸男監督と続いていくんですが、あのころが日本サッカー界で一番苦しかった時代かもしれません。1968年メキシコ五輪で銅メダルを取ったチームの下の世代は育成が進んでなくて、銅メダル組が少しずつ引退するとチーム力がだんだん落ちてしまったんです。

1980年に就任した渡辺正監督は、チームの若返りを一気に進めて新たに歩み出そうとなさいました。話し下手で、根性と精神面と大和魂を前面に出して、でもみんなを連れて食事に行ったりとかそういう思いやりもある方で。その渡辺監督からキャプテンに指名されたんです。26歳でしたね。

ところが渡辺監督は就任から五カ月で、くも膜下出血で倒れたんです。日本代表戦の前でした。すぐ入院して頭の中にパイプを入れてたんですけど、意識が戻ったら「日本代表の試合に行かなきゃ行けない」とそのパイプを引きちぎって大騒ぎになったんです。

それでとうとうベッドに縛り付けられることになってました。2、3週間経ったところで「キャプテン一人なら」ということで僕の面会が許されました。病院に行ったらまだ全身縛られてるんです。

僕は声をかけましたが、まだ渡辺監督は話すことが出来ませんでした。でも頷いてくれたので、言葉は届いたのだと思います。そういう渡辺監督の生き様を見て、日本代表は、どんな状況でも強くなければいけないと心に刻みました。

ただ、代表チームの中には当時、企業チームの古河、三菱、日立と、新興の読売、日産がちょうど混じり合う時期で、これをまとめなきゃいけないので本当に苦労しました。規律を重んじる企業チームと、個人を大事にするクラブチームとではそれぞれの文化がまるで違って、人前では見せませんでしたが、精神的には消耗していたと思います。ヨーロッパ遠征の時は本当に胃が痛くなって走れなくなったこともありました。

若い人たちに精神的なことを言ってもついてこない。逆に僕は浮いちゃうんです。でもやっぱり大事なのはメンタルですよ。僕は渡辺さんたちに教わった精神的なものを伝えたかったけど、それが一番難しかった。戦うスポーツだから精神的なものがとても大事だし、日本を背負っているということを分かってもらうのが大変でした。

浮いたとしても伝えなければならないと思ったのは、長沼さん、平木さん、そういう人たちの生き様を目のあたりにしてたからです。自分さえよければいいというのは代表チームじゃない。日本のために自分の生活すべてをかけているというのを教わっていたから、それを伝えていくのが自分の役割だと思っていました。

空回りがあったかもしれませんがね。ただ、僕は日産のマリーニョとか読売のラモス瑠偉とかと親交があって、一緒に六本木に遊びにいったこともあるし、古河としてはちょっと異色だったと思います。その柔軟性のおかげでなんとか役割をこなしていました。

そんな中で1984年のロス五輪予選があったんです。その年の1月にコリンチャンスを招いて親善試合があったんですよ。コリンチャンスには1982年スペインワールドカップのブラジル代表メンバーだったソクラテスもいて、当時の日本からは格上の相手という感じでした。

でも初戦を2-1で勝って、第二戦は1-2で敗れて、国立競技場で行われた最終戦では3-2と勝利を収めたんです。これで五輪予選も突破できるんじゃないかという気運が高まりました。

ところがフタを開けてみると初戦のタイに2-5で敗れてしまったんです。何が拙かったかというと、ディフェンスラインが読売と日立で構成されていたことでした。中盤は僕と木村和司、田中孝司の3人、日産、日本鋼管、古河です。それぞれの文化が違いすぎました。森孝慈監督いろいろメンバーを変えて戦いましたが、最後までうまくいかなかったですね。

あの当時、日本サッカーリーグ(JSL)で失点が少なかったのは古河でした。でも古河から呼ばれたのは僕と岡田武史だけ。攻撃は読売が一番すごかったけれど、そこから呼ばれたのは加藤、都並敏史、松木安太郎のDF陣。メンバー構成もいろいろ難しい時期だったし、サッカーも変わってきた時期でしたね。

結局予選は五戦全敗でした。監督と選手の板挟みになってたのが花岡英光コーチでね。泣いてましたよ。すごく申し訳ない気持ちになりました。

1980年代に入るといくつかの企業が少しずつサッカーに注目するようになり国内での親善試合が増えました。1980年にはヨハン・クライフがワシントン・ディプロマッツでやってきました。クライフには初戦でユニフォームを破られましたよ。有名なクライフターンを読んでボールを取ったというのもありました。初戦の福岡での試合は0-1で最後の国立での試合は1-1です。勝たせてくれない力の差を感じました。

1982年にはディエゴ・マラドーナがボカ・ジュニアーズと来て、1分2敗でした。当時、彼らは楽しむために来ていて、勝てばいいだろう、1点取ればいいという感じだったのだと思います。でもスーパースターとやると、体で覚えるんですよ。Jリーグが強くなったのも、海外のスーパースターが来て一緒にやったからだと思います。やはりレベルアップするには国際試合をやらないとダメですね。

1980年代は大変な時代でしたが、そのぶん心に残るエピソードもあるんです。1982年に日本代表がルーマニアに行ったとき食事の量が足りなかったんです。レストランに行っても食べるものが少なかったですね。

そこで日本大使館の長谷川大使がご自身たちの残りの米で塩にぎりを作って差し入れしてくださいました。小ぶりのおむすびが40個ぐらいでしたかね。みんな飛びつこうとしたのですが、周りを見たら東京12チャンネル(現・テレビ東京)で放送されていた「三菱ダイヤモンドサッカー」のスタッフが取材に来ていらしたんです。

金子勝彦アナウンサーと、他に4人ぐらいいらしたと思います。その方々も食べ物がなくて困っていたようでした。だからチームメイトに「ちょっと待って」と言って全部は食べないようにして、おにぎりを持って行きました。金子さんもスタッフの方も、後々まで「あのおにぎりは美味しかった」とおっしゃっていたと聞いています。あの当時、みんなサッカーの仲間、という雰囲気がすごくありましたね。そんな経験が出来たことはよかったと思います。

 

 

■ケンカしてチームがまとまる 古河電工にもあったプロ意識

1980年代は、日本サッカー界にプロクラブが存在しなくて、企業チームが日本サッカーリーグを牽引していました。だから高校や大学を卒業したら企業に入社し、その福利厚生の一環としてサッカーをするんです。午前中は仕事をして、午後はサッカー部の練習。そして土日に試合というスケジュールでした。

僕が入社した古河で、長沼さんは総務部長で、仕事をしているときは和やかでした。僕の所属は川淵三郎さんが課長だった勤続部2課。川淵さんはその頃もうサッカーをやっていらっしゃらなくて仕事だけに専念していらっしゃいました。

川淵さんは将来古河を背負って立つという雰囲気で、川淵さん自身も仕事に集中していらっしゃいましたね。川淵さんはモテてましたよ、ファンレターとかチョコレートとかたくさんもらっていらっしゃいました。

古河のサッカー部で僕は背番号9をもらいました。僕が入る前に古河は優勝してましたが、代表チームでよく知っている方が5、6人いて、びっくりするようなことはあまりなかったのですね。ただ古河には当時からプロ意識があったと思います。

あるときチームがなかなか勝てなくなって、「練習が終わってからレギュラーだけでいつも行く焼鳥屋さんに集まって話し合おう」ということになったんです。自分は若造だったんですけどレギュラーだったんで行きました。ベテランプレーヤーだった清雲栄純さんが先頭に立っていろんな話をして、次にあるベテラン選手が話を始めたんです。

その話の間中、僕はずっとモヤモヤしてました。そのとき、奥寺さんがドイツに行ってたのでやっぱりチームの顔になっているような選手の人たちが引っ張らなきゃいけないと思ってんたんですよ。でもそういう看板選手って、ボールを取られても追いかけなかったりしてたんですよね。一人がそういうプレーをするとチームに伝染するんです。影響力のある人がそれをやったらバラバラになってしまう。でも誰も言わなかったんですよ。

ところがベテラン選手はそういう指摘はせず、最後のセリフが「主力選手のためにも頑張ろうじゃないか」というものだったんです。僕はカチーンと来て、コップを机にガチンと置いて「ふざけんじゃないですよ」って。コップは割れました。「何を言っているんですか。一番やってないのはチームの看板の人たちですよ。おかしいですよ」って。

そうしたらやり玉に挙がったと思った人たちがいきり立って「ふざけるな、お前何者だ」って詰め寄ってきたんです。「いや、何者とかじゃないですよ。代表選手がもっと引っ張っていくべきでしょう、代表なんだから」って。そうしたらもう大変。「ふざけんじゃない、辞めろ」「辞めますよ、こんなチーム」とエスカレートしちゃって。

「帰ります。辞めますよ」と席を立ったら清雲さんが「ちょっと待て」って。看板選手たちから「オレはやるから、お前ふざけんじゃないぞ」と言われて、「いや、ふざけてないですよ。みなさんがやればチームがよくなるのは当たり前じゃないですか」と返しました。

僕は疑問に思ったことは言ってました。それでもこのときはみんなに動揺がありましたね。でもそこからチームが変わりましたよ。雨降って地固まるじゃないけど、そういう人たちだったからケンカしてもまとまってチームが強くなったんです。だから当時から古河はプロ意識を持ってましたし、自分にも「サッカーで古河に入社した」というプロ意識がありました。

 

■セルジオ越後さんに学んだ指導者としてのテクニック

僕が現役だった時代、サッカー選手は会社員でしたし、終身雇用の時代でした。そして先輩たちを見ていると現役生活は30歳ぐらいまでしかできないという感じでした。サッカー部の人数が決められていて、新人が入るとベテランから切られていくんです。

そんな中で1977年に日本代表がドイツ合宿をしたとき、ヘネス・バイスバイラー監督が奥寺さんに目を付けました。奥寺さんは最初断ったのですが、川淵さんたちの後押しで移籍し、1977-78シーズンのリーグ優勝、ドイツカップ優勝に貢献していました。

奥寺さんは会社に籍があるままドイツに行ったんですよ。上司だった川淵さんがもしも移籍で失敗したときは戻ってきていいようにしてあげてたんです。

僕も海外に行きたいと思ったときもありました。日本代表がドイツからベルティ・フォクツを特別コーチで招集したとき、フォクツが「前田はドイツで通用する」とおっしゃっていたと通訳さんから聞きましたから。

だけど、外国に行って2、3年プレーしても帰ってきて他の多くの選手と同じように30歳前後で引退したら、そのあとの人生のほうはどうするのか見えなかったですね。ましてや日本のサッカーは他の国からはバカにされているような状況で、言葉の分からないところに行くのはリスクが大きすぎるとも思っていました。

それに僕は日本代表のキャプテンを任されてチーム作りをしなければならないのに、それを放棄して海外には行けないという気持ちもありました。日本のサッカー界で育ったのだから、日本サッカーに貢献しろという考え方です。

1983年に尾崎加寿夫がドイツに渡ったとき、日本のサッカーを捨てるのかという批判もあったぐらいです。それに日の丸をつけている選手として失敗して帰ってくるわけにはいかないという気持ちはありました。

もし今の時代なら僕も行ってたでしょうね。どこまでやれるか試して。でもそれは日本の社会が変わって、会社に入って生涯その会社に勤めるというのが難しい時代になったからです。今は定年までこの会社にいられるだろうかという不安感のほうが大きいでしょうね。今の世の中に安定はないのだから、若いときにチャレンジできるのならという、時代背景になってきましたね。

もっとも当時にしてもサッカー部を辞めるときは非情ですよ。若手選手が入ってきたら「そろそろ仕事のほうに」と肩を叩かれるんです。頑張っていても続けさせてくれない。辞めてくださいといわれて、それを断れない雰囲気があるんです。そしてスタメンから下ろされて途中出場になり、部を辞めることになります。

まだできるのに辞めさせられるんです。つらいですよ。1990年、そうやって僕は現役を引退することになりました。岡田も同じときに引退でしたね。でも岡田はコーチとしてチームに残る。僕は社業で頑張れ、ということでした。

自分も指導者としてやりたいという気持ちがあったので辛かったですね。そのとき、八重樫茂生さんのおかげで救われました。八重樫さんは1968年メキシコ五輪のキャプテンで、初戦のナイジェリア戦で靱帯断裂のケガを負ったのにチームに残り、全員分のユニフォームを一人で洗ってみんなをサポートしたという「伝説のキャプテン」です。古河ではJSLのベストイレブンを3回受賞した名選手ですね。

八重樫さんに「現役を辞めます」と連絡したら、知り合いの古河電線販売の社長に連絡を取ってくださって、僕はその会社に出向し、そこで指導者ライセンスを取れることになったんです。「オレが責任を持つから来い」と言っていただいたんですよ。八重樫さんの人望があったから出来たことでした。

1990年にC級、1991年にB級を取り、2000年にS級コーチライセンスを取得しました。C級を取ったとき、平田生雄さんから「お前、現役辞めて何やってる?」と連絡がありました。平田さんは「セルジオ越後さんと一緒に『さわやかサッカー教室』で全国を廻っているから、一緒にどうだ?」と誘ってくださいました。

それでセルジオさんと一緒に全国を回ったんです。一番驚いたのは話術でしたね。セルジオさんはもちろんテクニックがある。でもそれ以上に話術で子どもたちを引きつけるんです。楽しさが最初にある。これが指導者かと思いました。

指導者養成講座のマニュアルはしっかりしてるんですけどとても真面目です。一方、セルジオさんはユーモアを交えて遊びの中から指導されるんですよ。その指導者としてのテクニックを学びましたね、これは面白かったですよ。

「さわやかサッカー教室」は夏、集中的に全国を廻って開催していました。午前中から午後までやって、いろんな地方を転々とするわけですから、夏場は本当に厳しかったですね。ハードでしたけど、でもこの仕事を誇りに思ってました。

日本の子どもたちにサッカーの素晴らしさと楽しさを広めたのは「さわやかサッカー教室」だったと思います。全国いろんなところに行って、いろんな方々と会って、悩みもいっぱい分かったし、3年間続けて勉強になりました。

1990年にはさらに地元京都の京都紫光クラブからも連絡がありました。紫光クラブは将来的にJリーグ入りを狙っていて、そのためには日本フットボールリーグ(旧JFL)1部に上がらなければならない。せめて試合にだけ出てくれないかと言われたんです。

だから毎日、仕事が終わって帰宅した19時、20時からトレーニングをしました。公園を走ったりして体力を落とさないようにしたんです。そして土日だけ試合に出て、そのまま戻って翌日は仕事です。このころはくたくただったですね。休みがないですから。仕事も一日中、帰ってトレーニング、日曜日は試合という生活です。

1991年のある試合で、相手と接触して鼻を陥没骨折しました。整形外科に行ったら休日診療で、看護婦さんに押さえつけられながら鼻に火鉢みたいなのを入れて引っ張って。麻酔もなくて、本当にきつかったですね。

そしてその次の日、目眩がして立ち上がれなくなりました。原因不明です。医者からは疲れすぎているから職業を変えたほうがいいと言われました。1カ月半は天井が回って階段を登れなかったですね。それで結局紫光クラブは1シーズン限りで辞めることにしました。

1990年からは1991年石川国体に向けて石川県少年男子の臨時コーチをやりました。当時の石川県はサッカーがあまり強くなかったのですが、地元ですからベスト8までは勝ち上がりたいということでお手伝いをさせていただくことになりました。それも土日の仕事でしたね。

僕が初めて選手を見たとき、決してレベルが高い子たちではありませんでした。それでフィジカルとかテクニックとか、いろんなことを教え、韓国に遠征したんです。韓国に着いたら、向こうの監督が僕のことを知っていて、ご父兄までいらっしゃって大歓迎ですよ。差し入れもたくさん頂いて。これはビックリでした。しかもそのとき、石川県はいい試合をしました。

結果的に、石川は国体でベスト4まで行って0-1で負けました。FWは後半途中で肉離れしながらも90分間最後までやり遂げましたよ。みんなの頑張る姿が感動でしたね。生徒たちはみんな泣いてました。その翌年、全国高校サッカー選手権大会に出た星稜高校には国体で育った子が半分いましたね。

 

■「全員を試合に出すべき」東京国際大学で実践する信念

1994年、ジェフユナイテッド市原(現・ジェフユナイテッド市原・千葉)でユースを指導することになりました。ジュニア、ジュニアユース、ユースとシステムはしっかり出来上がっていたので、あとはそこでの指導力です。

指導というのはメニューだけをこなしても意味がないんです。セルジオさんと一緒に全国を廻ったときに気付いたことでした。デモンストレーションもしなければならないし、今何が起きているかを見極めなければいけないんです。

それからトレーニングの中では休みをできる限り無くさなければならない。それは肉体的にもそうですし、頭もそうです。常に動いて、頭でも考えていなければならないというトレーニングです。

そして指導者は選手一人ひとりが違うんだということを認識しなければいけません。そうでないと選手がみんな同じような動きをして同じようなプレーをするようになるんです。指導がマニュアルどおりではダメなんですよね。僕がユースを指導していたとき、阿部勇樹とか山口智とか本当に優秀な選手が育ってくれましたね。

1997年に今度はジュニアユースとジュニアを担当することになりました。考えようによっては、すべてのカテゴリーができたというのは幸せなのかもしれないですね。

ジェフには古河からの出向という形で行っていました。そして1998年に古河に戻ったとき、同期は課長クラスでしたが、僕は会社に戻っても仕事がないんです。ちょうど日本の景気が悪くなり、会社は早期退職者を募集していました。早期退職すると少ないけど退職金も上乗せさせるんです。そのとき僕は47歳で、このまま会社に残るのか、あるいは早期退職して別の道を探すのか、本当に悩みました。

それで自分の同期の人事課長に話を聞くことにしました。その同期はサッカー部の応援団長でもあって信頼できたんです。彼には正直に言いました。「お前はオレの唯一の味方だから、オレがここに残ってやれる仕事があるのか、それとも出たほうがいいのか、決めてくれ」って。

 

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