サッカー選手は引退後に何をすべき?…経営者になった播戸竜二のセカンドキャリア【サッカー、ときどきごはん】
明るい表情の中にも
時折見せる真剣な眼差し
臨機応変に態度を変えつつ
その実狙った的は確実に仕留める引退した後も現役時代さながら
ストライカーとして次のゴールを狙う
そんなちょっとお茶目な播戸竜二の
半生とオススメの店を聞いた
■カズさんに会って「これがプロなんやな」と感じた
現役生活21年やったんですけど、でもね、小野伸二(コンサドーレ札幌)とか遠藤保仁(ジュビロ磐田)とかまだやってるんで。南雄太(大宮アルディージャ)、稲本潤一(南葛SC:関東サッカーリーグ1部)、高原直泰(沖縄SV:JFL)もそうですし。
だから「長いことやった」という思いはありますけど、まだまだ。それにやっぱりカズさんも含めて、まだまだ上はたくさんいますからね。
同期の選手たちとは、会ってはいないですけど、ときどきLINEしたりする感じです。伸二とは札幌行ったとき、一緒にご飯食べたりしてますね。LINEグループもあって、誰かの誕生日とか、そういうときは「おめでとう」「ありがとう」とか、そういうのは結構やります。
「ゴールデンエイジ」って呼ばれてた世代で、すごい選手が集まってたんですけど、お互いをライバル視するのは昔からあんまりなかったですね。なんていうんでしょうね、「仲間」とか「ファミリー」とか、そういうイメージですよ。
でもやっぱり刺激にはなります。「あいつ頑張ってるな」みたいな。みんなが頑張ってるのはうれしいし、だから自分もまた頑張らなとも思うしね。「ふざけんなよ」とか、そのへんは全然ないですね。ほんとに。
自分は1998年、ガンバ大阪に入ったときって、最初は練習生扱いで給料が10万円ぐらいやったんですよ。それでも「プロになるチャンスをもらえる」というだけで、ありがたかったんです。
同期の稲本とか新井場徹は、もうその前の高校3年生のときから試合出てたんで。だけど彼らもライバルみたいに思ったこともないし、「頑張って追いつこう」みたいなそんな感じでしたね。
その練習生のメンタリティとか雰囲気のまま、21年間ずっといたって感じですね。僕がチームで試合出たとしても、みんな代表で活躍したりとか、それぞれのチームで活躍してたりとかしてたんで、「自分もよくやった」とは思いますけど、「自分はすごい選手なんや」とか、そういうのは一切思ったことないですね
ただ運はよかったんです。1998年に入団した最初の年には試合に出られたんですよ。パトリック・エムボマが1998年フランスワールドカップの前にコンディション調整したいみたいな感じで練習休んだり、試合に出なかったりしたんで。そこで僕にチャンスが回ってきて。
「2試合出たら、プロ契約してあげる」って言われてたんで、4月早々に2試合出て、それでプロ契約になったんです。そこからは、ただひたすら試合に出ることとか、ゴール決めることとか、次は代表に入りたい、海外でサッカーしたいみたいな、そんな目標立ててました。
試合にちょいちょい出るようになって、U-19日本代表に呼ばれて1999年ワールドユース選手権のアジア予選に出て準優勝して、それでナイジェリアで開催された1999年ワールドユース(現・U-20ワールドカップ)に出て、っていう流れでしたね。
今考えるととんとん拍子に見えるかもしれないけど、でもなんか、満足は一切なかったですね。FWには高原という絶対的な選手がいて、伸二がいて稲本、遠藤、本山雅志、中田浩二、小笠原満男、他にも数々のすごい選手たちがいたんで。だから、もっと頑張ろうみたいな、やるしかなかったという感じです。
そんなチームでしたから、どう雰囲気を盛り上げるは意識はしてましたね。それはどう成果を残すかって考えたときに、実力とかプレーの面はもちろんのことですけど、それ以外の部分で、どれだけひとつにまとまれるかとか、いい雰囲気を作れるかとか、そういうことって、結構大事だと思うんで。
全体はフィリップ・トルシエ監督が全部決めてやってましたけど、和というものとか細かい部分でこれをやったほうが良くなると思うことは、自分なりにちょっとずつやってました。
代表って寄せ集めじゃないですか。そしてみんな自分が活躍したいという選手たちが集まるんですよ。その中で個人としてどうかというのもあるけど、やっぱりチームとして輝かないと大きな成果が出ないんで、そこは意識してましたね。
自己犠牲してるつもりはないんすけどね。自分が結果残すためには何が一番か、チームが結果を残すためには何をすればいいのかって考えたんで、盛り上げ役は自己犠牲とは全く思ってなかったです。嫌やったらやらないですけど、それが楽しい部分でもあったんで、やってたっていうのはありました。
1999年ワールドユースは日本として初めてFIFAの大会で決勝に進出したんで、周りは盛り上がってたかもしれないんですけど、でも自分たちはみんなで「優勝しよう」って言ってたんで、できなかったのは悔しかったです。
もしあの時代に、今のように海外に行けるような環境があれば、きっとみんな行ったでしょうね。あの当時、中田英寿さんはイタリアのペルージャに行ってたけど、なかなか行けるような状態じゃなかったですからね。日本人選手の評価もそんなに高くなかったですし。今だったら行ってましたね。やりたかったですね、海外で。
それでガンバに戻ってプレーしたんです。みんなはワールドユースが終わったら今度は2000年のシドニー五輪予選のメンバーに入って試合に出てて。でも僕はガンバでレギュラーってわけじゃなかったんです。
だけど自分はシドニー五輪というよりも、自分のサッカー人生とか日本代表に入るためにはやっぱり試合に出ないといけないだろうと思って、2000年にJ2のコンサドーレ札幌に行ったんですよ。当時、J1からJ2に移籍していく選手はあんまりいなかったですけど、自分は「行く」と決断して、20歳で北海道に飛び立ちました。
それで2000年はJ2で優勝して昇格しましたし、岡田武史監督からは1年間レギュラーとして使ってもらって、リーグ4位の15点取って自信がつきました。2年目の2001年はJ1で9点取りましたし。
2000年はエメルソン、2001年にはウィルという選手たちとコンビを組めて、相棒の両方とも得点王になったんで、そのあたりはすごく僕自身も自信にはなりましたね。プロとしてやっていけるっていう、その土台みたいなのは札幌で育てられたと思います。
そして2002年にヴィッセル神戸に行くんですが、地元に帰るというイメージより、とにかくカズさんとやりたかったのが一番でした。昔から「カズさんみたいになりたい」と憧れてサッカーをやってたんで、その人と一緒にやれて、すごくいろんなことを学べましたね。
プロとしての心構え……毎日全力を出すとか、サッカーのために時間を使う、真摯に向き合うとか。ほんとたくさんのことをカズさんと一緒にやることで学びました。
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