主審人生はこれで終わった……レフェリー山本雄大にはその後何が起きていたのか【サッカー、ときどきごはん】
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主審人生はこれで終わった……レフェリー山本雄大にはその後何が起きていたのか【サッカー、ときどきごはん】(J論プレミアム)
シュートされたボールは右ポストを強襲する
そして跳ね返ると左のネットの内側に飛び込んだ
ところがボールはゴールを飛び出しGKの腕に収まる
この場面で主審が下した判定はノーゴールだった1級審判昇級を1年で成し遂げ
28歳で国際審判員に選ばれるなど将来を嘱望されたレフェリーは
このジャッジで大きくつまずいた
はたして山本雄大は立ち直れるのだろうか
▼湘南戦のノーゴール判定はなぜ起きたのか
あの場面を振り返ると……。まず自分がポジションを、もう少し外に開けばよかったというのがあります。
キックオフから20分が過ぎて、試合もだいぶ落ち着いた、選手のテンションも下がってきたところで、自分の中で無意識にちょっと緩みがあった、抜けてしまったのかもしれないんです。
そうしたら中盤でボールが僕の横を予想以上のスピードで通り過ぎて。「あっ!」と思ったんですけど動けなかったんです。そこから本当はもっと対角線上に、メインスタンド側に開くべきところを、ボールを先に通してしまって後から追いかける動きをしたので、ボールを覗くような感じになったんですよ。
セオリーどおり左に出ていればボールの軌道が見えたかもしれない。もっと走っていれば外からもしかしたら見えたかもしれません。
でも「あっ!」と思った瞬間にボールが縦に入っちゃって、自分は遅れたがゆえに、左に出なければいけないところを、ちょっと右に行ってるんです。湘南の縦パスが早いというのは試合前のスカウティングで十分確認していたはずなんですが、一瞬驚いたというのはありました。自分の中に焦りがあって、正直「ヤバい」というのもあって、自分の視野が狭くなっていたと思うんです。
そしてもう1つの自分の決定的なミスもあって。それは、我々審判団は試合前に打ち合わせをするんですけど、そこでの話なんです。僕はルーティンの決まり事を確認するよりも、何かトピックがあったらそれを共有しようとしてきたんです。
(5月3日のJ1リーグ10節、鹿島vs清水で清水・中村慶太のFKがゴールラインを割ったがノーゴールに。また同10節の広島vs横浜FMでは、後半終了間際に広島・川辺駿がヘディングシュートを放ちGKがかき出して得点が認められなかった。また、川崎vs仙台では川崎・長谷川竜也のゴールが認められたがオフサイドだった)
人間の目では判定が難しいような場面が起きたらどうしようかと考えてて、打ち合わせのとき副審の2人に「ゴールに入ったかどうかについてはお任せします」という言い方をしてしまいました。自分としては副審がゴールに入ったかどうか見ていてくれれば、得点絡みの判定間違いは避けられるだろうという思いがあったんです。
ところが僕が強いお願いをしたばっかりに、副審の方は「自分が見なければいけない」という気持ちになってしまって、フルスプリントの中で視野が急激に狭くなった。自分が副審を追い込んでしまったんです。副審はシュートのときオフサイドラインにいて、そこから出遅れた形でゴールを判定しに走らなきゃいけない。
シュートが打たれたとき、僕の前には選手が4人いました。それでも右のゴールポストにボールが当たったのは確認できてるんです。その次にボールが僕の視野に入ってきたのは、GK西川周作選手の手の中に収まった後でした。
昔だったらゴールの奥にバーがあってそこに当たって跳ね返ってくるというケースはあったのですが、今はなかなかそういうこともない。そしてインカムから耳に入ってきたのは「ポスト、ポスト、入ってない」という声だったんです。
僕も副審も右のポストに当たったのはわかったんですけど、そのあと何かがあってボールはゴールから出てきた。ということは、何か固いものに当たらないとあそこまで跳ね返ってこない。そういう経験から来る思い込みがあって、見たものを自分の都合のいいように変えてしまったんです。
僕は見えてない。副審の方も入っていないと思っている。そこで僕は「プレーを続けてください」というジェスチャーをしました。それで浦和の選手もカウンターを仕掛けたんです。
そのカウンターから浦和のアンドリュー・ナバウト選手が負傷して交代してしまいました。それは明らかに僕が誘発したことです。得点が入ったかどうかをしっかり見られなかったから、起こらなくていい選手のケガを招いてしまった。もしあそこで得点を認めていればあのケガはなかったと思います。レフェリーとしては本当に申し訳なくて……。
試合中も抗議は受けました。試合が止まっている間にも「ゴールだったのかもしれない」と感じていました。ただやっぱり審判は見えてないものを判断できないんです。周りからどんなに何か言われても、最終的に信じられるのは審判団の仲間だけなんですよ。だから「入ったんだろう」では判定を変えることはできなかったですね。
最終決定は主審が下しますし、最終的に何があっても責任をとらなければいけないのは主審だと思って今までやってきてます。自分がお願いしたことを副審はやってくださって、もちろん人間だからそこでミスもあるんです。でもそこは最終的に「自分が責任を取る」とやってきたので副審の方を責めるつもりもないですし、他の審判員を責めるつもりもないですし、自分が背負わなければいけないことだと思います。
▼ピッチ内外で多くの支援、助けがあったから復帰できた
ハーフタイムに4人で審判控室に戻ってくる時、場内が異様な雰囲気だったんです。
ここ数年インターネットサービスが発達してからはそうなんですけど、何かあったときって観客のみなさんがすぐにスマホでそのシーンを見てるんです。だからいろいろな雰囲気を感じたことはあったのですが、このときは、ざわつきがそれまで経験したことがないような感じでした。だから本当にボールはゴールに入ってたんだろうというのがわかりました。控え室に戻った時には空気が重かったですね。
それでハーフタイムは1人でトイレにこもって、「これが最後の45分だ」と腹をくくりました。違う意味で腹をくくれたので、逆に「最後だ」というアドレナリンが強くて、正直後半はあまり覚えてないんです。試合が終わって控え室に帰ってきたとき、やっと現実に戻って立てなくなって。
試合が終わった後、いろんな方に「後半は凄かった」「今まで見たことがないようなレフェリングだった」と言っていただいたんですけど、覚えてないんです。試合の映像は、得点が入ったかどうかというシーンは見ましたが、まだ1試合通して、特に後半は怖くて見られてないです。
試合が終わった後にマッチコミッショナー、レフェリーアセッサーの方たちと審判団はミーティングをするんです。当日はお二人が部屋に入ってこられても、何も言われなかったですね。逆に心配してくださる感じで「大丈夫か?」と声をかけてくださって。少し落ち着いた後にどういう状況でどう判断を下したのかという話はありましたが、いつもとは全然違いました。
そのとき考えていたのは「自分の主審人生はこれで終わった」ということでした。もう一度この立場に戻ることはできないだろうという気持ちも強かったですね。戻ることはもうできない。「させてもらえない」とかじゃなくて、「できない」という気持ちです。
スタジアムで待機中、まず一番に気になったのは家族です。自分がやってしまったことなんで、自分への批判はしょうがないし、言われても受け入れる。そういう立場です。それまでも大小ありますけど、非難はされてきましたし、それが仕事だと思ってやってきました。けれど、妻と子供だけはやっぱり守らなければいけない。そっちに非難がいかないようにしなければということだけを考えました。
それまで、先輩たちからいろいろ話は聞いていたんですよ。誤審の後、最初に考えたのは子供のことだったって。話を聞いてたときはあまりピンと来てなかったんです。でもいざ自分がそういう立場になると「本当だ」と。
幸い、妻の会社の方は知らないふりをしてくださいました。子供はサッカーをしてるんですが、監督さんや保護者の方、学校の先生方がかなり気を遣ってくださった。学校やサッカーチームの方々がサポートしてくださって、子供たちはいつもどおり学校に行けたので、本当に救われました。
Jリーグや日本サッカー協会の方々も、僕のケアもしてくださるんですけど、まず「家族は大丈夫か?」というのを何度も聞いてくださって。そこは感謝しかないです。
それで僕は……。外に出るの怖かったですね。街の中にはサッカーのことに興味がない方ももちろんいるんで、僕のことは知らないだろうとも思うんですけど、常に誰かに見られているとしか思えなくて……。正直家を出られなかったですね。2、3週間はなかなか寝られない、食べられないというのが続きました。
それで、小川委員長とJFAトップレフェリーグループシニアマネジャーの上川徹さんにご配慮いただいて、僕がずっと一緒に活動させていただいていた大先輩の扇谷健司さんに復帰プログラムをサポートしていただくことになったんです。
ちょっとサッカーから離れて、寝られない、食べられないという状態から、まず人として生活できるように、扇谷さんに来ていただいて、何も会話しないで2人でぼーっとしてたり、サッカーと全く関係ない話をしてましたね。扇谷さんは何も言わずただ寄り添ってくださって。それが2週間ぐらい続きました。
夜、不安になって扇谷さんに電話したことがあるんですよ。扇谷さんは忙しい中、「わかった。明日朝一番で行くから」って翌日自宅のある関西まで来て下さって。そのサポートがあり、徐々に食べたりすることができるようになりました。
それで「PR(プロフェッショナル・レフェリー)キャンプ」に参加させてもらったんです。「PRキャンプ」は大体毎月開催されてて、PRの仲間、特に先輩から厳しい意見をいただくこともあります。でもこのときは、みなさんが今までの失敗だったり経験してきたことを話してくださって。逆に僕が今どういう状況で、どう思ってるのかということを聞いてもらって。
Jリーグに戻ることができたのは2019年6月14日の川崎vs札幌でした。そのとき、本当にありがたいと思うことがあったんですよ。キックオフの90分前にスタジアムのいろいろな確認のためにピッチに出て行くんですけど、そうしたら等々力のメインスタンドのお客さんが名前を呼んでくださったんです。いろんな方が「がんばってね」「応援してるから」って叫んでくださって。それまでそういうことってほとんどなかったですね。
試合前に選手が整列するとき、僕は「何を言われても自分がやってしまったことなので受け入れるしかない」と思ってたんです。きっと厳しいことを言われるのだろうと思ってました。
それで選手の用具チェックをしていると、いろんな選手が「大変だったね」とか「がんばってね」とか言ってくださるんです。「心配したよ」「よく戻ってきたね」とか「すごい叩かれようだったけど大丈夫だった?」とか。
その後、別の試合会場でもいろんな選手がそういう声をかけてくださった。選手誰1人責めてこなかったんですよ。それにはビックリしたというか、すごい感謝でしかなくて。
ただ、そうやってピッチに戻らせていただきましたけど、やっぱり「次はミスをしたくない」という気持ちがあって、ファウルを見つけにいってしまうんですよ。そうするとどんどん視野が狭くなっていくんです。
「こんなファウルは今まで取らなかった」というところまで見にいってしまってるんですね。視野が狭くなるゆえに、選手が走ってくるコースに入っていることも気づかずに交錯してしまったり。
そういう部分で、復帰させていただいたけれども、そこからの葛藤のほうが……自分の中での歯がゆさとかモヤモヤとか。「なんでなんだろう」と考えれば考えるほどドツボにはまっていくとか。不安はないつもりでも、いざピッチの上に立ってプレーを見ていると、やっぱりそれまでやってきたこととちょっと違うと感じてました。
いろんな意味で辛かった……いや、辛かったという言い方はよくないですね。フィールドに立たせていただいている以上、そういう感情抜きで全力で臨まないと選手に対してもお客さんに対しても失礼に当たりますから。結局、前の自分のようにジャッジできていると思えたのは、2019年シーズン最後のほうでしたね。
▼妻の助けがあったからレフェリーを続けてこられた
僕は小さいころからずっとクラブチームでサッカーをやってました。そのクラブの中学の時のコーチがサッカーの審判をされてて、かつ陸上自衛官だったんです。その方の人間像に憧れた部分もあって、高校を卒業するとき大学のお話をいくつかいただいたんですけど、断って陸上自衛隊に入りました。
それで陸上自衛官として勤務しながら自分がいたクラブに指導のお手伝いに行ったんですよ。すると「チームの中で誰か審判員の資格を取らなければいけないから山本が取れ」と言われて「はい」って。
それで資格を取りに行ったときの試験官だった方が京都の1級審判員で、「お前は体も大きいし自衛官なので走れるし、ずっとレフェリーをやれ」とおっしゃったんです。そこから右も左も分からないまま審判を続けてきました。
審判の世界に深く入り込んだ1番のきっかけは子供ができたことですね。僕は早くに結婚してて20歳で子供が生まれてるんです。「いずれこの子もサッカーをやってくれたらいいなぁ」と思っているうちに、子供にかっこいい姿を見せたいという気持ちが湧いて。でも選手は無理だから審判で極めよう、という感じです。だから子供が生まれてからは急に上を目指そうと思いました。
ただ、審判の世界で上を目指そうと思うと休みの日は研修か笛を吹くかのどちらかになってどんどん時間がなくなってくるんです。それから自衛官というのは特別職なんですが国家公務員なので、審判をして謝金をもらうと公務員が禁止されている副業になってしまうんです。
だから謝金はいただけない。でも京都のリーグや関西のリーグで笛を吹くと謝金を受領してしまう。Jリーグの1級審判員になったら、さらに多くの謝金が発生します。だから自衛官のままでは謝金が発生しない下のほうのリーグで笛を吹くしかなくて、上を目指せないんです。そうなって「自衛官を辞めよう」と。22歳のときです。妻は唖然としてました。応援はしてくれましたけど。
自衛官を辞めた後、自衛隊から斡旋していただいて商社に入社しました。土日休みというところをお願いして見つけていただいたんです。それで4月に入社したんですけど、もうその夏には千葉であるインターハイに2級審判員で推薦していただいたんですよ。
会社からは「よし、行ってこい」と言っていただいたんですけど、帰ってからが大変で。「このクソ忙しい時に1週間も休みやがって」って思われるじゃないですか。それで「ここもダメだってな」って、1年でその会社も辞めてしまって。
次の仕事を探したんですけど、審判の養成をしている「JFAレフェリーカレッジ」に行きたいという気持ちもありました。だから常勤じゃだめで、非常勤で半分パートみたいな働き方が出来て、「この時期は休みたいです」と言ったら休めるような仕事を探しました。
それで、そういう働き方が出来る職場があるということで介護職に転職して、レフェリーカレッジに通ったんです。23歳のときですね。妻は「あの時が一番苦しかった」と言いますね。「生活できるのだろうか」と思ったって。
それで24歳で1級審判員になり、28歳になった2011年には国際審判員にも選んでもらったんです。2015年まではその職場で介護職として働いていました。
国際審判員なんで海外の試合にも派遣されるから長期で休ませてもらって。介護施設の利用者さんは、僕がときどき1週間とか2週間とかいなくなるので、帰国すると辞めたと思ってましたね。
僕みたいな生き方だと、普通だったらまず生活できないということになりますよね。幸いなことに僕は妻が常勤で働いてくれていたので、生活はどうにかなりました。ただ、そこまで理解してくれるパートナーも少ないと思いますし、仕事とプライベートの両立が難しくて辞めていく仲間を何人も見てきました。
だから僕はたまたま幸運があって、いろいろな方々にサポートしてもらえてここまで来られました。プロフェッショナル・レフェリーになったのは2015年ですね。みんなからは期待してもらってたとは思います。……こけちゃいましたけど。
2020年のJ1リーグからはVAR(ビデオ・アシスタント・レフェリー)が導入されますが、最初入るって決まった時、いろんな意味で申し訳ないという気持ちが強かったですね。最初は2021年に導入という話だったのに1年間前倒しになった。そのきっかけのひとつを作ったのは僕だと思っているので。
ライセンスを取るために年末年明け、開幕前までに研修を受けなければいけないんです。1年前倒しするにあたって本当にいろんな形にみなさんにご迷惑をおかけしている状態です。
今の自分の目標は……まずVARが1回も入らないパーフェクトなゲームをやりたいと思っています。それから、国際審判員の7名には入れていただいてるので、目指せる立場ですから、2022年や2026年のワールドカップ出場は目標にしたいと思ってます。「ない」と言われるかもしれないですけど、そこは目指していきたいと思います。
そしてJリーグの笛も吹かせていただいているので、いつかJリーグの選手のみなさんやお客さんから「山本だったら大丈夫」と言っていただけるような審判になりたいと思います。レフェリーの先輩たちから「お前の名前の認知度は凄い」って言われてますから、名前だけは覚えていただのではないかと思ってます(苦笑)。
▼噂どおりご飯の話を聞かれるのですね
食べ物の話をするって本当なんですね。話はちらっと聞いてます。扇谷さん、相樂亨さんと昨日までVARの研修で一緒だったんですよ。そこで2人に言われました。「本当にご飯のこと聞かれるからね」って。
僕は肉が大好きです。特に鶏肉が好きなんですよ。唐揚げも好きなんですけど蒸してるのも好きですし、焼き鳥も好きですし。だからお勧めって言われるとそっちにいっちゃいます。
奈良に大和肉鶏(やまとにくどり)という地元の鶏を使った店があるんです。そこがすごく美味しくて。そこは味噌だれを付けて焼くんですよ。近鉄奈良駅の近くにある、「ぼうぼう焼き 鶏若」さんという店です。
扇谷さんに奈良に来ていただいたとき、一緒に行ったことがあるんです。扇谷さんも食べておいしいとおっしゃってました。扇谷さんがおいしいと太鼓判を押してくださったので間違いないと思います。
この話を出そうと思ってると言ったら、扇谷さんから「俺、食ってばっかりと思われちゃうじゃないか」って言われちゃいました。この記事が出たら怒られるかな。
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山本雄大(やまもと・ゆうだい)
1983年京都府生まれ。2007年「JFAレフェリーカレッジ」へ入学。2009年よりJ2主審、2010年からJ1主審として活躍。2011年には国際主審として登録される。2015年からプロフェッショナル・レフェリーを務める。
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森雅史(もり・まさふみ)
佐賀県有田町生まれ、久留米大学附設高校、上智大学出身。多くのサッカー誌編集に関わり、2009年本格的に独立。日本代表の取材で海外に毎年飛んでおり、2011年にはフリーランスのジャーナリストとしては1人だけ朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の日本戦取材を許された。Jリーグ公認の登録フリーランス記者、日本蹴球合同会社代表。2019年11月より有料WEBマガジン「森マガ」をスタート