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真面目に生きるべきだった…田原豊はなぜサッカー界を飛び出したのか【サッカー、ときどきごはん】

187センチ、87キロという巨躯は
高校時代から注目を集めていた
打点の高いヘディング
バイシクルシュートを決める柔軟性
まさに未完の大器だった

だが彼は優しすぎた
名門に入団しながらその後は移籍を繰り返す
あのころの自分に彼は何を言いたいのか
今も人の良さがにじみ出る田原豊に半生とオススメの店を語ってもらった

 

■3回の昇格と4回の0円提示

鹿児島実業高校からプロに行くとき、チームを決めるのに監督から職員室に呼ばれたんですよ。「どこのチームに行きたいんだ?」って聞かれて「うーん」と迷ってたら、「行くと決めたチームならどこでも行けるぞ」って。本当かどうか分からないですけどね。

それで自分のプレースタイルを考えて、どうやったら得点が取れるか考えたんです。自分って個人技で打破してシュートを打つタイプじゃなくて、誰かパサーがいてこそ自分が生きると思ったんですよ。そうやって自分を一番生かしてくれるのは誰かと思ったら、中村俊輔さんだと。それで横浜F・マリノスに入ることになりました。

2001年ですかね、いや、2000年かな。2000年ですよ。いや、やっぱり2001年だ(笑)。何年だったかあんまり覚えてないんですよ。よく考えたら引退してからまだ9年しか経っていないのに、もう10数年経ったつもりでいましたから。そう言えば2000年の時は強化指定選手(現・特別指定選手)としてアビスパ福岡に行ってました。結局1試合も出てないですけどね。

2001年、開幕戦はスタメンじゃなかったけど最後に8分間出たんです。その後も途中出場が続いたあと、5月6日の第8節、柏レイソル戦ではスタメンでした。7月7日の第13節、ジュビロ磐田戦ではフル出場して。

でもその年の競争はすごかったんですよ。新加入選手がFWだけでも坂田大輔、安永聡太郎さん(シーズン途中から/2回目の加入)、ブリット、リパティン、レアンドロがいたし、高校の先輩の城彰二さんもいて。しかも俊さんはケガで、チームは一時リーグ最下位に落ちてオズワルド・アルディレス監督は途中で解任されました。

残留争いが始まって、どうしても勝たなきゃいけないという試合が続きましたね。そうなると自分はまだ経験値が少なくて出場機会が減ってきたんです。もちろん実力不足っていうのもあるかもしれないですし、そういうことを理由にしちゃいけないですけど。

それで2002年に入ってすっかり出番がなくなってしまって、これは移籍したほうがいいだろうということになったんです。そのタイミングで声をかけてくれたのが2チームありました。1つは関東圏のチームで、もう一つが京都パープルサンガ(現・京都サンガ)で、京都には高校の1学年先輩の松井大輔さんがいたんです。

どっちのチームにしようか決めるとき、僕が考えたのは練習がどういうものかでした。それで練習が楽だった京都を選んだんです。もう1つのチームはものすごく走るトレーニングをしてて、それはちょっと無理だなって。僕は練習って好きなんですけど、走るのはキライなんですよ。

京都でもいろいろありましたね。2002年はゲルト・エンゲルス監督だったんですが、2003年は成績が低迷して、途中でピム・ファーベーク監督(故人)に代わったんですけど結局降格してしまって。

2004年は西村昭宏監督でスタートして、途中で柱谷幸一監督になりました。2005年にJ2で優勝して昇格したんですけど、2006年はまた降格して、途中から美濃部直彦監督に代わって、2007年は途中で加藤久監督が引き継いで、そこでまた昇格することが出来ました。10月24日のJ2リーグ第47節、ホーム・愛媛FC戦ではオーバーヘッドのシュートも決めて。

僕がいた2002年から2008年までの7年間で2回昇格して2回降格してますからね。「エレベーターチーム」って言われてました。僕個人としては2005年はJ2の全44試合のうち32試合に出て9得点で、2007年はJ2の全48試合のうち31試合に出場して9得点でした。

ただね、僕は夏場に弱いんですよ。スタミナがないんです。だから暑いときはあまり試合に出てないんです。それは京都に限らず。今度Jリーグが秋春制になって暑いときはリーグ戦をしなくなりましたよね。やっとそうなったかという感じですよ。

京都はメチャクチャ住みやすい場所だったんですけど、盆地で夏は暑くて冬が寒いんです。僕は「盆地」って聞くだけで暑いのがもっと暑く感じられて、そこだけは苦手でした。それでもすごく好きだったんですけどね、京都。ただ2008年の終わりに「0円提示」されました。

正直、シーズンの途中から何となく分かるんですよ。最終節の1カ月とか2カ月前から。そのころからチームの方針と自分の考えが合わないのは分かってましたから、覚悟はしてました。「この先どうしよう」と不安がいっぱいでしたね。しかも「方針が合わない」とかになると、他のクラブもなかなか手を挙げてこなくて。

それで初めて代理人を付けたんです。その代理人の田邊伸明さんが国内外のいろんなチームに当たってくれました。そこで海外のチームのテストに行ったんです。最初は韓国のチームに行ったんですけどテストが2週間もあって、田邊さんから「テストで2週間はおかしい。それは単なる人数合わせだろう」って言われて止めることにしました。

続いてオーストラリアのチームのテストに行ったんです。もう結論が出るというときに電話がかかってきて、当時J2だった湘南ベルマーレが練習参加させてくれるぞって。慌てて帰国してチームに合流して、結局入団が決まったのは開幕の3日前。それで開幕戦はスタメンで出ました。

この年はリーグ戦が51試合の長丁場で、そのうち41試合に出て10得点取ったんですよ。8月9日から9月13日の夏場は出場してないんですけど。たぶん、韓国やオーストラリアでしっかり体を作ってからシーズンに入ったので、それがよかったんだと思います。

その年の湘南は3位になってJ1に昇格しました。湘南にとっては11年ぶりのJ1でしたね。京都で2回昇格していたし、湘南でもできたから「昇格請け負い人」みたいな感じで言ってもらいました。

ただ1年で降格することになって、2011年はJ2で戦ったんですけど最終的には14位でJ1に昇格できませんでした。2011年には湘南からも「0円提示」されたんです。このときも「契約は今シーズンで終わりだろうな」って2、3カ月前からかな。感じてて。いろんな話は耳に入ってくるし、そのシーズンでの自分の貢献度とか考えると、チームの中では高給取りだったから難しいだろうなって。

それで2012年に横浜FCへ移籍したんです。横浜FCでも、第5節には最下位に沈んでたんですけど、そこから浮上して4位まで上がって昇格プレーオフには出たんですよ。昇格は出来なかったんですけど。最初、岸野靖之監督で、田口貴寛監督代行がつないで、最後は山口素弘監督になった年でした。

ただ2013年は11位とプレーオフ圏にも届かず、そこでまた「0円提示」になりました。横浜FCはJ2の中でもまだ資金力があるチームなんですけど、その中では自分って高給取りでしたから。強化部長が2002年に横浜FMで一緒にプレーしていた奥大介さん(故人)で、あるとき呼び出されて提示されましたね。

 

 

その時点で31歳で、ある程度の年俸をもらっている自分を獲るチームは少なくなったんです。年俸を大きく下げれば取ってくれるチームはあったと思うんですけど、家族のことを考えるとなかなかそういう決断もできなくて。もし独身だったら50パーセントカットでもサッカーできるんだったらいいって考えてたんでしょうけどね。

実は、あるJクラブでプレーしてたとき、契約更新するんだったら50パーセントカットって言われたことがあるんです。「ふざけんな」「もう移籍してやる!」って生まれ故郷の鹿児島に帰ったんですけど、オファーが全然来なくて。それで年が明けて「すみませんでした」って謝ってその金額でプレーしたこともありました。

このときはそういうオファーもなくて、どうするかすごく困ってるときに、田邊さんからタイのチームを紹介してもらったんです。あるチームの練習に参加して、その間に他のタイのチームから練習に誘われて。両チームとも結論は出なかったんですけど、帰国したあとに「契約したい」と2番目のチームから連絡が来ました。それでタイでプレーすることにしたんですけど、メチャクチャひどかったです。

 

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