「あのとき僕はスタジアムに行くのを迷った」……岡山一成がフロンターレ優勝を見て抱いた思い【サッカー、ときどきごはん】
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「あのとき僕はスタジアムに行くのを迷った」……岡山一成がフロンターレ優勝を見て抱いた思い【サッカー、ときどきごはん】(J論プレミアム)
「サッカー選手」であるために、必死にあがき続けてきた男の考えを変えたのは、くしくも岐路に立つたびに彼のサッカー人生を後押ししてきた大好きなあの場所から見た景色だった。
「こういう生き方もあるんや」
彼がようやく見つけた選手であることと同じくらい熱くなれる道とは何なのか?
第二幕の幕開けの真相と未来への思いを打ち明けてもらった。
■「元Jリーガー」になったときが一番どうしていいか分からなかった
今、新型コロナウイルスの影響でサッカーできなくて、苦しいとかいろいろあるじゃないですか。今はできなくて当然なんですけど。
僕はサッカーできないだけじゃなくて、所属がないと、自分が保てなくなるんですよね。1997年に横浜マリノスに入るまでは、高校卒業した後、所属が何もなかったんです。だから卒業式が高校時代で一番辛かったですね。
1996年の全国高等学校サッカー選手権大会ではベスト4に入って国立競技場も経験してるし、いい青春やったとは思うんですけど、最後の卒業式は本当に出たくなかったですね。
みんなが進路決まってて、同期の1人はプロになったし、他のチームメイトは社会人としてサッカー続けられるところに行ったりとかしてたんですけど、そのとき僕は何の所属もなくて。友達で、スカウトが来て高校3年生の1月から練習に参加したりするのをすごくうらやましいと思いながら見てて。自分は「何したらいいんだろう」って。しかも大学進学は全部自分で断ってたんですよ。太いパイプがある推薦だったのに。
今考えておけば、大学に行っておけばまた違う道もあったかと思うんですけど、そのときの自分は大学よりもJリーグに行きたいという思いだけだったんで。それで「ASAYAN」(1995年から2002年まで放送されたテレビ東京の番組)のオーディションを受けてたんです。アサヤンからJリーガーになろうって企画とか。そうしたら番組とは別のところで急にプロサッカー選手、Jリーガーになれたんですよね。
そういう思いをしてJリーガーになったんですけど、プロ生活を続けていく中で、サッカーができるというのが当たり前の日常になっちゃったんですよね。Jリーガーでいられるのはすごいことだって分かってるんですけど、自分がずっとやれるという思いになっちゃったのが10年ぐらい続いたんですよね。
Jリーガーになりたてのころは、みんなで「30歳までサッカーやれたらいいな」ってよく話をしてたんですよね。そうしたら先輩が「30歳になったら一気に動けなくなるぞ」って。井原正巳さんから「お前たち、今いいな」ってよく言われてたんですよ、
「今の歳ならいっぱい動けるんやぞ。動きたくてもできなくなるんだから」って言われてたんですけど、そんなにピンとこなかったんです。そこから自分もグッと体力が上っていってましたから。
25歳のころって1つも疲れなかったし、27、8歳のときなんて1番経験も積んで体も動いて、本当に自分の全盛期ってそういうときだったんですね。2006年に柏にいたときはディフェンスでも10ゴール取ったりとかしてて。
でもそこからだんだんパフォーマンスが落ちて、自分でも「あれ?」ってなりだしたのが28歳から30歳ぐらいかな。それまで未来は「どんどんよくなっていく」という感じだったのが、「落ちていくんじゃないか?」という考えになっていったんです。そうなってくると若いときのイケイケからどっか守りに入ってくるみたいな。
若いときってがむしゃらに行くからケガとかも多かったんですよね。でも30歳ぐらいになると経験から「これ以上やったらケガをする」と分かって、わざとやらないようにするんです。そうしたらどこかで、「あいつは動けない」という評価を下されるというか。
そうやってケガが怖くて全力を出してなかったからかもしれないんですけど、2008年にベガルタ仙台との契約が満了になって。試合は33試合出ていたんですけど。ただ自分では分かってんですよ。「パフォーマンスは一杯いっぱいで、どんどん落ちていく」って。だからそんな評価を受けたなって。でもまだ自分を評価してくれる人もいるだろうと思ってトライアウトを受けたりしたんですけれども、どこもなかったんですよね。
そうやってオファーがなくなるというのは、だいたいどの選手も同じじゃないですか。そんなときみんな決断すると思うんです。サッカーを辞めるなり、フロントに入るなりっていう。でも僕はまだそこの気持ちとか、自分の体がどういう状況なのかも整理できてなくて。
そうしてる間に、最後の契約が満了になる1月31日が来るんですよ。契約延長しないという通知を受けたとき以上に、1月31日を迎えたときが、一番どうしていいか分からなくなった日でしたね。2月1日になったら自分は、分かりやすく言えば「元Jリーガー」じゃないですか。でも「元」と言うのがイヤだったんで、「まだJリーグ目指してる」とか言ってました。
僕って「優勝したい」とか「昇格したい」とかいろいろ言ってるときのほうが、力を発揮できると思うんですよ。でもその時からもう何も言えなかったんですよね。唯一言えるのが「もう一回Jリーグに戻りたい」という事だけで。
何をどうしたらいいか分からなかったんですけど、まずはサッカーをする環境をどうにかしなきゃということでしたね。ボールを蹴る場所すらもなかったので。フットサル場に交渉しに行ったりとか、草サッカーやってる人たちにお願いして試合に出してもらうとかやってました。
蹴りたくても蹴られない。朝起きたら「今日1日なにしようか」と考えなきゃいけないんです。それまでって10年間、チームでスケジュールが決まってたのに。それまでは選手としてチームにスケジュールをもらうのが当たり前で、それは幸せだったんですけど、そのチームのスケジュールがイヤになってた部分もあって。
1カ月に1回、次の月のスケジュールが出て、それを見ながら「ここ休みないな」「ここ2部練習や。キツイな」とかブツブツ言って。オフの時は「始動日いつや? うわ、なんでこんなに早いねん」とか。そうやってやってきてたから、自分でスケジュールを組み立てられなかったんです。そのときは解説の仕事なんかもなかったし。
それで最初は頑張ってやってたんですけど、だんだん公園でボールを蹴るのもイヤになってきて。すごく辛いというか、どうしていいか分からなくなって。テストも受けられないんですよ。「岡山、お前のことは分かってるから。うちはいいよ」って、練習生とか自費参加とかもできなくて。母校に帰るという手もあったかもしれないんですけど、拠点を関東にしてたんで、それは選択できなくて。
そんなとき自分の引退をはっきり、ポンと決められた人は本当に凄いと思うんですよ。自分とちゃんと向き合って決断しているわけじゃないですか。でも僕はそのときもそうだし、その後もそうなんですけど、自分がサッカー選手を辞めるというのが考えられなかったんです。今も辞めたって言う気もないですし。
それからの人生でも、スケジュールがないというのは何回かあったんですよ。ただ、このときが、1番何していいか分からなくて。そのあとはだんだん免疫がついてきました(笑)。
そうこうしてたら、たまたま「韓国で選手をやらないか」と言う話をもらって、「そうだ、サッカーって日本だけじゃないんだ」と思って浦項にテストを受けに行ったんです。浦項に行ったらとにかく練習ができる、サッカーができると思いましたね。それで2年間韓国でプレーして、2011年に帰国したんですけど、そのときも所属がない、スケジュールがない。どうしようと思って、スペインに行ってテストを受けたんです。
でもね、スペインってテストを受けるのにお金がいるんですよ。韓国でテストを受けたときは、向こうの施設でご飯も宿泊費もタダだったんですけど、スペインでは宿泊費もテストの費用も全部自腹でした。テストは1クラブ300ユーロ、当時のレートだと4万5000円ぐらいですね。その中で6つのクラブを受けました。最初は「こういうテストのやり方なんや」と思ってたんですけど、途中からは「ボラれてるんじゃないか?」と思って。
テストを受ける先を2部、3部と落としていって、4部のチームでやっとOKをもらったんです。けど、ビザが降りないと言われて。しかも何らかの形でプレーしたとしても、1年経ったらどうなるか分からないと言われたので、これは厳しいと思って帰ってきました。
日本に帰ってきたとき石崎信弘監督に「帰ってきました」と挨拶したら、「一度プレーを見せに来い」と言ってもらえて、それでコンサドーレ札幌のテストを受けて入ることができました。
2012年に札幌との契約が終わったときも、結局行けるクラブがなかって。何チームかテストを受けてはみたんですけど、もうどこもあかんということで、「もう辞めよう」という気持ちにもなったんです。
そうしたら2013年8月2日に、松本平広域公園総合球技場(アルウィン)で故・松田直樹くんの「松田直樹 3rd メモリアルイベント」の試合があったんです。その試合で松本に行って、松本山雅が地域リーグから上がってきてJリーグ入りを果たしたって「ほんまにこんな世界があるんや」と思ったんですね。
それまで僕は「Jリーグのクラブに入りたい」とばかり思ってたんですけど、そこからは「Jリーグに上がっていくようなクラブを探そう」って変わったんです。それで奈良クラブに行ったんですよ。2017年で奈良クラブとの契約が切れたとき、サッカー選手としてホンマにやっと限界を感じました。
■「岡山また賑やかしに来てるわ」と言われるのが嫌で……
そんで僕の話はここからが本題なんですけど(笑)、契約がなくなったら自分がサッカー選手かどうか分かんなくなるじゃないですか。でもそんなとき「やっぱりサッカーがすごく好きだ」「Jリーグはすごくいいところだ」と思える場所があるんですよ。それがサポーター席なんです。
僕はサポーター席に行って、そこからグラウンドに入る人たちを見るんですよ。そんでみんなと一緒に応援するんです。応援してるときは楽しいし、めっちゃ熱くなれるんですよ。ゴール決まったらみんな一緒に喜んで、声出してジャンプして。あれずっとジャンプするの本当にしんどいんですよ。ふくらはぎ、つりそうになるし。あれ90分やるのって本当にきついんです。
そうやってサポーター席からグラウンドを見てると、「やっぱりあそこでやりたい」と思うんです。応援される側になりたいと思うんですよね。
そういえば高校1年生のときは、僕って箸にも棒にもかからない選手で、試合のときってスタンドで3年生の先輩たちをずっと応援する部員だったんですよ。そのときに母校の初芝橋本高校が高校選手権に初出場して1回戦で負けたんですよね。
みんなスタンドで大泣きしてたら、先輩たちから「お前たちを国立に連れていけなくて悪かったな」って言われてまた泣いて。「お前たちが頑張ってくれ」「頑張ります」って言って、翌年僕たちが国立行ったんです。僕の人生、今考えたらそのときから、まずスタンドから見て「あのグラウンドに立ちたい」という思いを強めてきた感じですね。
高校のときもテストを受けに行っているチームの試合って、サポーター席から観てたんですよ。どこかに入れるかと思ってたんですけど、最後でダメだったチームとかもあったんです。そのときもサポーター席から見て、やっぱりあの舞台に立ちたいと思ってましたね。
サポーターの人たちは「選手の頑張りを見て自分たちも元気になった」って言うじゃないですか。それぐらいグラウンドには何かパワーがあるんですよね。みんなの思いが詰まったというか。
僕が「選手でいるのが一番」ということから考えを変えたのもサポーター席だったんですよね。それは2017年12月2日の、川崎フロンターレが初優勝したときの試合のことで。
あのとき、僕はスタジアムに行くの迷ってたんです。……正直に言ったら。もうなんか……なんか……なんですかね。……いじけてるんですよ。そういうときって。僕が行ってもなって。
みんなは「岡山また賑やかしに来てるわ」とか「お祭り騒ぎで来てんじゃないか」と思ってたかもしれないんですけど、あのころ結構……いつも落ち込んでる……うじうじしてたんです。なんか、所属がないと、結構、自分に言い聞かせないとだんだん……。
しかも誘いがないんですよね。そういうときって周りの人も電話するのに気を遣って。自分も電話があったら「何かな?」って期待するんですよ。それで用件が別に何もなかったら失望というか、一喜一憂というか。
自分に所属がなかったときと言うのは、「みんなは所属があって、なんでオレは」という考えになるんです。みんなが羨ましく見えてきちゃって。「自分もちょっと前はみんなと同じやったのに」とか。そうすると「スタジアムに行ってもなぁ」とか「行っても受け入れてくれるのかなぁ」とかあるですよ。
でもそのときに誘ってくれる人がいたりすると救われるんです。フロンターレのときは元プロモーション部部長だった天野春果さんが誘ってくれたんです。あのときフロンターレは最終節の前まで2位だったけど、天野さんが「絶対優勝あるから、歴史を一緒に観ようぜ」と言ってくれたんですよ。その天野さんの言葉を聞きながら「もっと誘ってくれ!」って心の中では思ってました。
気を遣わないでズケズケと言っている人の存在っていうのは、ホンマにありがたいんです。天野さんに「こんな状態のオレが行っても」って言ったんですけど、「お前がいなくてどうすんねん。お前をどんだけみんなが待ってんねん」と言ってくれて。それでスタジアムに行くと本当にみんなは歓迎してくれるじゃないですか。
それで優勝のときに思ったんですよ。僕にとって1番思い入れがあるのはやっぱり中村憲剛なんですよ。一緒にプレーしてたし、プレーし始めて1週間経ったところで「お前は絶対代表に行くわ」って言ってたし。憲剛は「そんなの言われたことないです」って言ってたんですけど「じゃあ、オレが一番最初に言うわ」って。だから憲剛が喜んでいるのはうれしかったんです。
けど、それ以上に僕が選手のときに近かったのが鬼木達監督だったんですよね。鬼木監督がどういう気持ちで区切りを付けて現役を辞めたかとか、フロンターレの中でいろんなことをしながら監督になったかとか、僕はずっと話をして知ってたんですよ。
だから鬼木監督が優勝した瞬間に「こんな生き方があるんだ」とやっと思ったんです。僕はずっと選手でいたいという気持ちが強かったんで、本当だったら憲剛ともう一回プレーしたいってなるはずだったんですけど、そのときは「あ、鬼木監督みたいになりたい」と思ったんです。
そこから僕はまた動き出したんですよ。勉強したいと思ってA級コーチライセンスを取らせてもらえるようにって努力して、次の年にA級を取れたんです。
フロンターレの優勝を見るまでは、試合を見るときって自分が所属したことのあるチームとか知ってる選手のいるチームを応援をしてたんですけど、そうじゃなくて勉強するためにフラットにJリーグを見ようと思って。それで放送で試合の解説をやらせてもらったんです。
そのときも僕はこういうことを伝えられますということをアピールして席を与えてもらえたんです。A級ライセンスが取れた後も、オファーは何もなかったんですけど、自分で売り込んで鈴鹿アンリミテッド(現・鈴鹿ポイントゲッターズ)でコーチをやらせてもらって。そうしたらVONDS市原からオファーをもらったんです。
今でも自分のテンションをマックスに持っていけるのは、サポーター席から見た光景なんです。あのグラウンドの上でやりたいって。だからVONDSに来たときも、一番最初にやったのがサポーターと一緒に応援することでした。僕の中ではそこからの景色を見ておくというのが一番自分をかき立ててくれて。ピッチの上の人ってかっこよく見えるじゃないですか。
しかもカテゴリーが上がっていけば行くほど、すごい世界になりますしね。フロンターレについては、自分は浦島太郎ですよ。今考えたらすごいチームでサッカーをやってたので、今はそこからずいぶん遠くなっちゃったけど、そういうところにもう一度関われるような人間になりたいと思います。自分の中では今、VONDSを強く大きくするというのが大切で、経験を積んで大きな人間になりたいと思ってます。
■この環境でやっている選手を見て自分はホントに甘かったと痛感
現役時代に自分のセカンドキャリアを考えていたかというと、そのときはやった気になってただけで。たとえば会社作ったりとか、他の先輩がやっていることをやってみようという感じだったんですよね。実際、自分がセカンドキャリアに行ったときに1つも使わないんですよ。
なぜならそれを本気でやりたいと思ってなかったというか。ビジネスプランなんかも考えてたんですけど、僕、向いてないんですよね。サッカーもいいプレーしたらいくらになるというのが分かった上じゃないから、今、やれてるんですよ。
これをやったら儲けがいくらとか、経費がいくらとか、それをちょっとでも考えるようになると見え方が全部数字になっちゃうんです。そうなるとその数字を求めていって、自分がイヤになるんですよね。一時期は食べていかなければいけないからって考えてたんですけど、自分で「向いてない」っていう思いになったんです。
ホントは営業とか自分に向いてるんじゃないかと思ったんですけど、夢を語る事はできても、実際いくらですという数字になってくると、自分で引いちゃうんですよ。だから僕はそこの道にはあまり関わらないようになりました。
昔は「サッカーしかできない」というのがイヤだったんです。僕はいろんなことができるだろうって。僕はでもサッカー以外に行ったら全然動けないんだなというのが分かりました。それだけでも良かったと思います。
今、指導者になって選手を見てるんですけど、僕の場合はジェネレーションギャップ以上に「熱さ」のギャップから空回りみたいに思われるんじゃないかと思ってたんですよ。でもそれはVONDSではないですね。
ここの選手たちは午前中サッカーして、午後は介護の仕事をするんですよね。全員じゃないんですけど半分以上はメインスポンサーの介護施設で働いているんです。しかもその介護の仕事をちゃんとやってて。お年寄りの方たちの世話をちゃんとできるというのを1番に考えてるんですよ。
そこまでしてでもサッカーをやりたいという思いでこのクラブに来てやっているので、その情熱に関しては僕のほうがリスペクトしています。この中でサッカーをやっている選手を見てると、自分はホント甘かったなって。
「もっとやっとけばよかった」って誰でも思うじゃないですか。でも僕なんか特に「午前中で練習が終わって、午後の時間にもっとこういうことをしておけば今自分に返ってくるのにな」って。今の選手にはこれ以上は言えないなって。
選手は充分やってるんです。ただ上手くないだけなんです。サッカーが上手ければこの選手たちはもっと違う環境にいられたかもしれないんですよ。頑張っているし努力もしてるんですけど、ただサッカーが上手くないです。
だから僕はちょっとでもサッカーが上手くなるようにチームを持っていきたいなって。そして選手も少しでもサッカーが上手くなりたいという気持ちで取り組んでくれているので。
まだ監督1年目で、夢を言うのは何ですけど、個人的にはいつかJリーグの監督になるというのが目標ですね。選手としてもう1回Jリーグの舞台には立てなかったんで、もう7年ぐらいJリーグから遠ざかってるんです。だからまずその舞台に立てるようにしたいし、VONDSでやっていることがそこにつながっていると信じているので。
そして夢で言えば、選手としては日の丸を背負うのが無理だったんで、なんとか監督とかコーチとかなんでもいいので日の丸をつけたいという思いは今も持ってます。そこはどうやればつながるか分からないですけど。
監督として僕まだ1試合しかやってないんですよ。しかも兄弟のようなチームとしてやって何とか1勝したというだけなんで、まだ何も言えないというのが本当です。早くリーグをやって、そこを戦った上で考えたいと思います。今はリーグが中止になっているので、自分のことを「監督」と言うのも、どうかなと。でもVONDS所属の28人の選手を守らなければいけないという気持ちを持ってますし、そういう意味で今を何とか乗り越えたいという思いだけですね。
■外食ができるようになったら1番に行きたいお店
僕が監督として初めて選手から招待してもらったレストランがあるんですよ。そこは選手が午後から勤めている店なんですけど。池田晃太っていう選手で、彼はYouTubeもやってて、アスリートの料理なんかも動画で紹介してたりしてるんです。
そこのご飯は本当においしかったんで「次、家族と行くわ」って言ってたんですけど、そのときはまだ単身赴任で、家族がやって来たころには新型コロナウイルスの影響で行けてないんですよ。
だから外食できるようになったら1番に行きたいんです。市原にある「花笑庵」という店です。オススメは豚の角煮ですね。その角煮が乗った丼が、これは本当に美味しいです。今は選手もみんな外出禁止なので、それが解けたらみんなで食べに行きたいと思いますね。市原に来たときは寄ってくださいね。
・花笑庵
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岡山一成(おかやま・かずなり)
1978年、大阪府出身。初芝橋本高校卒業後、横浜マリノス、大宮アルディージャ、セレッソ大阪、川崎フロンターレ、アビスパ福岡、柏レイソル、ベガルタ仙台、コンサドーレ札幌を渡り歩き、Kリーグの浦項スティーラースや奈良クラブでもプレー。川崎時代に始めた試合後のパフォーマンスは「岡山劇場」と呼ばれた。2019年に鈴鹿アンリミテッドFCのコーチを務め、2020年からVONDS市原の監督に。
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森雅史(もり・まさふみ)
佐賀県有田町生まれ、久留米大学附設高校、上智大学出身。多くのサッカー誌編集に関わり、2009年本格的に独立。日本代表の取材で海外に毎年飛んでおり、2011年にはフリーランスのジャーナリストとしては1人だけ朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の日本戦取材を許された。Jリーグ公認の登録フリーランス記者、日本蹴球合同会社代表。2019年11月より有料WEBマガジン「森マガ」をスタート
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