藤本淳吾はいまどこで何を?……半年以上チームが決まらない逆境のなかで【サッカー、ときどきごはん】
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藤本淳吾はいまどこで何を?……半年以上チームが決まらない逆境のなかで【サッカー、ときどきごはん】(J論プレミアム)
(c)松岡健三郎
今年1月に所属元のガンバ大阪、期限付き移籍先の京都サンガF.C.との契約が満了。その後、新たな移籍先を探すも新型コロナウイルスの影響もあり、今もプレーするチームは見つかっていない。
これまで味わってきた幾多の不運や挫折も「運も実力」と受け入れて乗り越えてきた。
それでも葛藤がないわけではなかった。
コロナ禍のなか、彼はいかにして自分を見つめなおしていたのか。これまでの歩みを振り返ってもらった。
■今でも頭をよぎる「現役引退」という考え
今は新型コロナウイルスの影響で練習参加に行けないんですけど、もうこればっかりはしょうがないんで。だから大変とは思ってないんですよ。それに今、各クラブも徐々に動き出してきてますし、ケガ人なんかも出てますし、今回は移籍ウインドーがこれまでの2回に加えて10月にも第3ウインドーということで延長されましたから。だから何かの話はこれから出てくるんじゃないかなと思ってます。
日頃は、基本的には母校の桐光学園高校に行って練習してる感じです。学校が受け入れてくれたんで、練習参加させてもらって体を動かしてます。テクニックがさびないように実戦的な感じで練習させてもらってて。あとは11歳になった長男のサッカーを見にいってます。長男は残念ながら右利きなんですけどね(笑)。
この状況だったら、考えすぎないことが大事だと思ってやってます。肉体的なことよりも精神的なことのほうが大事だと思うんですよ。どれだけモチベーションを落とさないかということが重要だなって。でも、自分の同期は去年の12月で引退した栗原勇蔵だったり今年の2月で引退した榎本哲也なんでね。……今でも現役を辞めようかなって考えるときもありますね。
■2006年の清水は凄いメンバーが揃っていた
2005年に清水エスパルスの特別指定選手になったんです。そのときから長谷川健太監督はすごく厳しかったですね。たぶん、筑波大学の後輩というのもあったと思うんですよ。それに僕としては大学との違いを肌で感じられてよかったんです。とりあえず必死でした。大学とは全然違って新鮮で、キツかったけど楽しかった思い出ですね。
それでそのまま2006年から清水に入ったんですけど、あのときの清水は周りのメンバーがすごくて、そういう選手に囲まれてたのはよかったですね。仲もよかったし。それに健太さんがきちんと締めてくれて、僕の伸びそうな鼻をへし折ってくれて。健太さんから守備のことや走ることなんかを厳しく言われて、そのおかげで自分のベースができたんですよ。
あのころの清水って、筑波大学の先輩の兵働昭弘さんがいて、斉藤俊秀さん、森岡隆三さん、佐藤由紀彦さん、久保山由清さん、北嶋秀朗さんとか、エダ(枝村匠馬)とか、本当にいいメンバーが揃ってて。だからチームでボールをキープしようというのを僕にしろ兵働君にしろすごく意識してたんですよ。「ちゃんとつなごうよ」って。
シュートを打てるかもしれない場面からもう1回崩しに行くとか、みんなそういう感覚が共有できてましたよね。もちろん、攻守が切り替わったときに早く行けるんだったらすぐ攻めようというのはあったんですけど、自分たちでボールを保持していたほうが守備の時間が短くなるし。健太さんもそういう練習を行ってくれてたし。
■記者の質問を牽制…「尖がっていた」あの頃
当時からメディアの人とはいろいろ話をしてました。メディアの人とは素直に話をしてたっていうのは「だから優しく接してね」という感じだったんじゃないですか(笑)。ただ、髪を切った週にゴールしたら記者の人から聞かれる前に「髪は関係ないから」って牽制したらしいですね。その話を後で聞いて、自分がそのセリフをどういう感覚で言ったか覚えてないんですけど、「尖ってたなぁ」とは思いました。
メディアの人って、僕たちよりもたくさん試合を見てるじゃないですか。もちろんピッチの中と外は違うけど、メディアの人から聞いた話をちゃんと頭の中に入れておくというのは大事なんじゃないかと思ってます。試合中に「こんなこと言ってたな」と思い出したりもするんですよ。いろんなところにヒントが埋まってると思うから。
でもそうやって人の話を聞くって、小さいころはできなかったんですよね。中学校の頃とか。高校に入ってからはちゃんと聞くようになったんですけど、それは年齢が上がったというのもあったし、周りが怖かったからというのもあって(笑)。
■13歳で味わったサッカー人生最大の挫折
自分のサッカー人生の中で苦しかったのは3回あって特に……やっぱり一番最初のところかなぁ。中学で横浜F・マリノスのジュニアユースに入ったんですけど、中学1年から2年生になるところで上がれなかったんですよ。自分はマリノスしか知らなかったし、大好きだったから「どうすればいいだろう」「どこでサッカーしよう」と考えたときでしたね。13歳でいろいろ決断しなきゃいけなくて。あれはね……。
あとは2008年の骨折ですね。これまでの選手生活では、タイミングが良くないケガが多かったんです。特に1回やった骨折のこととか、前十字靱帯を切ったときのこととか。しょうがないと思うんですけど、悔やまれるのはその骨折ですね。
2008年7月27日、大宮アルディージャ戦でタックルされて左足を負傷したんですよ。左足腓骨骨折および左足首内側靭帯損傷で全治3カ月かかって。ただ全治3カ月だったんですけど足首が伸びきらなくて、足の感覚とかキックの感覚がおかしくなって。やっとすっきりしたのが2009年の10月から11月ぐらいで、1年以上も元に戻らなかったんです。あれはちょっと辛かったですね。
それから2015年にマリノスを離れるときですね。ジュニアユースで上がれなかった後もマリノスはずっと好きで、2014年に所属してた名古屋グランパスからは延長のオファーをもらってたんですけど、マリノスに誘ってもらったんでやっと帰ってきて。
マリノスでは桐光学園高校の先輩だった中村俊輔さんが10番で、自分は周りからシュンさんの後継者として見られてるんだろうなってのは分かりましたけどね。背番号何番にするって話になって、確かそれまでシュンさんが25番で、その年から10番になったんで、「じゃあ25番で」って言われたと思うんですよ。これからはマリノスのためにやろうと思ってたんですけど……
2015年にエリク・モンバエルツ監督が就任した後、出番が減っていって、途中出場が多かったんですよ。ゴール取っても次の試合はスタメンじゃなかったりとか。そういう時は、結構家でグチグチ言ってました。モンバエルツ監督の目指すサッカーというのが縦に速いサッカーで、それにフィットしてなかったのかなと思いますね。それでチームに結果が出れば良かったんですけどね……。
監督は結構ドライな感じな人だったんですよ。あまりコミュニケーションを取った記憶もないし。僕もわざわざ自分から行くのはどうかなっていうスタイルだったんで監督のとこに話に行ったこともなかったですね。「来るな」という感じではなかったと思うんですけど、監督は自分から選手のところには行かなくてもいいやっていう感覚だったと思うんです。選手からくるぶんにはウエルカムだったんでしょうけど。
それで2015年にマリノスを去ることにしたんです。そのときは本当に悲しくて。もちろん自分で決めたことではあったんですけど、ファンの人からは「自分で出て行った」と思われたような気がして、そんなに簡単に気持ちの整理ができたわけじゃないんだって言いたかったですね。
■ザックジャパンの大一番で自信満々だった鼻をへし折られた
2011年カタールでアジアカップが開催されて、あのときは清水でベストのパフォーマンスを出せて自信満々で日本代表に選ばれて。「さぁアジアのレベルで自分はどれくらいできるだろう」って思って参加して、鼻をへし折られちゃった感じでした。
決勝では何もできなかったし。準決勝の韓国戦で負傷した香川真司に代わってスタメンだったんですよ。元々アルベルト・ザッケローニ監督も僕を使うかマサ(岩政大樹)君にするか迷ってたみたいなんです。
それで試合が始まったらすごい押し込まれるし、全然ボール来ないし、しかもティム・ケーヒルがヘディング、メッチャ強くて。それで56分にマサ君と交代でしたからね。もうちょっと長くやりたかったですし、あそこでどういう形でもいいから結果を出せれば良かったんですけどね。……でも運も実力のうちだし。
あの大会に臨む自分に今、何かアドバイスできるとしたら……「トライし続けろ」ということしか言えないですね。決勝は変な雰囲気だったし、パスも来なくて大変でしたけど、そこを自分でもう少しドリブルで崩すとか、そういうことをすれば良かったと思いますから。
でも、あの場にいられたことはすごくいい経験になったし、「自分はアジアではまだまだなんだ」っていうことを感じられたので。その2011年に名古屋に移籍してACLの試合でもアジアとの戦いを経験できたし、何よりあのときの代表に入っていたのがよかったと思います。
その後もちょくちょく日本代表には呼ばれてはいたんですけどね。左利きも少なかったから。でも、ワールドカップに誰を呼ぶかは監督が決めることだし、あとは運とかタイミングとかが必要で。ただ、楽しかったですよ、ザック・ジャパンは。
■ガンバ大阪に行ったのは健太さんがいたから
2016年にマリノスから健太さんが監督を務めてたガンバ大阪に行ったんです。それはもう健太さんがいたからという理由ですね。マリノスから出たショックをガンバで活躍することで晴らすぞっていう気持ちを持ってました。
でもガンバって2015年は三冠取ってて、2016年1月の天皇杯には優勝していたので、もうスタイルができ上がってて。マリノスからはアデミウソンと一緒に行ったんですけど、ガンバのスタイルにハマるまでに時間がかかりました。サッカーそのものは楽しかったですけどね。健太さんも昔ほどは怖くなくなってましたし。メッチャ笑ってるのを見てビックリですよ(笑)。
ようやくフィットしてきた、そして自分でもちょっと違うスタイルを確立してきたと思ってた2017年8月に右膝前十字靭帯を断裂したんです。そんなに痛くはなかったんですけど、2008年の骨折の記憶が甦ってきて。2008年は1年以上元に戻らなかったんで、またそうなるんじゃないかっていうネガティブな気持ちになっちゃって「あの感覚がまたあるんだったら嫌だな」と思ってました。でも、今度は長引かなくて、今はもう何の不安もないんですよ。
2019年末にガンバから期限付移籍していた京都サンガの話がなくなったあと、決まるだろうと思ってたチームがあったんですけど、決まらなくてそのまま今になったという感じです。次のチームは、カテゴリーはどこでも全然いいんですよ。ただ、海外はないかな。家族とか子供と一緒にいたいんで。家族が付いてきて、みんなで行ければいいだけの話ではあるんですけど……どうかなぁ。
今、僕は元気がないわけじゃないんで大丈夫です。サッカーは好きだし、その気持ちだけはこれから一生なくならないし。それにこうしてても、もっともっと好きになってるんですよ。これだけ長くやってもまだ好きになれるし、しかもその思いが強くなってるというのは、自分にとってもうれしいことなんです。だから今は体を作って、次にプレーできるところが見つかるまで頑張ろうと思ってます。
■今でも忘れられない筑波大時代に行った思い出の店
メシ、メシ……うーん、やっぱりメシって言うと思い出すのは筑波大学のときのことですね。プロになることが決まったとき、同期で名古屋に行った阿部翔平とあともう1人の同級生と飯を食べに行ったんですよ。それが思い出として残ってますね。
「炭火焼肉 楽園」っていう店と「寿司処 やぐら」っていう寿司屋さんが近くにあって、「よし、行こうぜ」って焼肉を食べた後に寿司を梯子したんです。その「やぐら」ってネタが超デカくて、それを自分の金で食べられるっていうのがすごくうれしかったなって。
清水でももちろん美味しいお寿司はたくさんあって、「やぐら」の寿司とは……同じぐらいかな。清水の寿司はすごく美味しいんですけど、思いが違うというか。
大学生のときってお金がないじゃないですか。でも「プロになったんだから」って食べに行って、しかもそんなに世間の人に知られてないというか、大学生だし。そういうのもあって、今も忘れられないメシでしたね。
・「寿司処 やぐら」
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藤本淳吾(ふじもと・じゅんご)
1984年3月24日生まれ、神奈川県出身。小学生のころに地元の横浜プライマリーに入り、中学で横浜Jrユースに。2年時にメンバーに残れず、横浜栄FC、桐光学園高、筑波大を経て2006年に清水エスパルスに加入、新人王を獲得する活躍を見せる。2011年から名古屋グランパス、2014年から横浜F・マリノス、2016年からガンバ大阪でプレーし、2019年途中からは京都サンガF.C.に期限付き移籍。2020年1月で契約満了でフリーに。日本代表では13試合に出場して1得点。
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森雅史(もり・まさふみ)
佐賀県有田町生まれ、久留米大学附設高校、上智大学出身。多くのサッカー誌編集に関わり、2009年本格的に独立。日本代表の取材で海外に毎年飛んでおり、2011年にはフリーランスのジャーナリストとしては1人だけ朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の日本戦取材を許された。Jリーグ公認の登録フリーランス記者、日本蹴球合同会社代表。2019年11月より有料WEBマガジン「森マガ」をスタート