金髪の美少年が石崎君になり関西弁をちょっと話すようになった……親子3代で叶えたプロサッカー選手の夢【サッカーときどき、ごはん】
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金髪の美少年が石崎君になり関西弁をちょっと話すようになった……親子3代で叶えたプロサッカー選手の夢【サッカーときどき、ごはん】(J論プレミアム)
彼の話を聞いていると、美しく華やかな風貌、黙々と泥臭くハードワークする職人のようなプレースタイル、挫折するたびに強くなる雑草のような生き様…そのすべてが「血」の力で必然的につながっているように感じられる。周りからも、自分でも、プロになれるとは思っていなかった少年がプロになる夢をつかみ、12年もの現役生活を全うするまでに彼が歩んできた決して平坦ではない道のりを振り返ってもらった
■「ガイジン」「金髪」……苦しかった思い出がよみがえる少年時代
生まれは北海道です。札幌市内ですね。
父はオーストリア人のお菓子職人だったんです。それがあるとき、札幌のお菓子の会社に技術者として招かれる形で来日したんですよ。どうやら最初は半年か1年という期間限定で来てたらしいんですけど、結局そのまま日本に残ってほしいという話になったみたいで。その後、日本での滞在が決まってから母と出会ったんでしょうね。そして両親が結婚し私が生まれました。
小さな頃から父とは一緒に公園に行ってボールを蹴ったりしてましたね。父親も来日する前から一応セミプロみたいなレベルでサッカーをやってたんですよ。父は左利きで左のウイングをやってたみたいです。祖父は1930年代の写真があるんですけど同じくセミプロレベルでゴールキーパーをやっていたそうです。
子供の頃って周りの目はあんまり気になってなかったんですけど、でもやっぱり小さいときの思い出と言ったら、顔立ちや金髪のことでいじめられた記憶ばかりですね。
子供って見た目の違いを正直に口に出すじゃないですか。「ガイジン」だとか「金髪」だとか。そういうのに小さい頃は結構苦しんでました。だからよく知ってる顔見知りのグループの友達と遊ぶのはいいんですけど、初めての場所に試合で行くとか、誰かと初対面になるという機会が本当に大嫌いでした。
幼稚園の時から遊びでサッカーを始め、習いにも行ってたんですけど、そうやってからかわれるのが嫌で辞めた時期もありました。まあ今になったらそんな事は笑い話なんですけどね。でも結局、小学3年生の時にまたサッカーを本格的に習い始めるんです。
小学3年生でやっぱり本格的にサッカーをやりたいっていう気持ちになったんです。3年生ぐらいになってもまだ周りからの見られ方は気になっていましたが、少しずつ自我が出てきて、その頃からは嫌な事も上手く流せるようにもなってきたかもしれません。
それでサッカーに戻ってみて、やっぱり楽しかったですね。小さいころと違って体も少し大きくなってましたし。3年生の時は小学校の少年団に入ったんですけど、「もっと上手になりたくない」と両親と話をすることが多くなって、「本気でやりたいんだったら、『SSS(スリーエス)札幌サッカースクール』は北海道の中でレベルが高いから、そっちに入ったほうがいいんじゃない?」と言われてました。
特に父は職人気質だったので「やるんだったら真剣にやりなさい」ということはいつも思っていたんでしょうね。だけど最終的には「自分で決めなさい」みたいな感じです。それで自分で決めてSSSに移りました。
SSSはクラブチームなので色々な学校から選手が集まって来てるんですよ。だから「どんな人たちがいるんだろう」「また嫌なことがあったらどうしよう」といった多少の不安もありました。でもそれ以上に本格的なチームでチャレンジをしたいという気持ちが強かったので行くことを決めたんです。
初日に練習行った時はすごく緊張してたのを今でも覚えてますね。でもいい仲間ばかりですぐにみんなが受け入れてくれました。ただ、やっぱり試合で他のチームの選手から「あいつ金髪じゃね?」と言われたり、ジロジロ見られたりすることはまだありました。
小学4、5年生ごろだったと思うんですけど、「金髪」だとか言われるのが嫌で、限界が来て親に相談したんです。そのときに言われたのが、「そういうのは、自分で乗り越えろ」みたいなことでしたね。
「サッカーをたくさん練習して上手くなったり強くなれば、そういう事って絶対なくなるから」と言われた記憶があるんですよ。なんだかよく分からなかったですが「とにかく一生懸命練習してみよう」とスイッチが入りました。結局は「自分で何とかしろ」みたいなことを両親から言われた形ですが、その言葉って今でも本当に頭に残っているんです。両親はその困難を自分の力で乗り越えてほしかったんでしょうね。
あとは「そんなに金髪を黒くしたいならワカメを食べろ」と言われて、味噌汁の具がほぼ毎日ワカメになりました。そうしたら6年生になるころには、金髪から茶髪に少しづつ変わってきました。ワカメの色素にはとても感謝しています(笑)。
小学6年生の時は北海道予選を勝ち抜き優勝し、よみうりランドで開かれていた全日本少年サッカー大会(第16回大会)に出られたんです。それは今でもすごく大切な思い出として残ってます。
その時の一緒のチームには、浦和レッズへ入団し、今はガイナーレ鳥取の強化部長をやってる吉野智行や、1学年下には日本代表になって今も愛媛でプレーしてる山瀬功治がいたんです。僕がセンターバックで守って、吉野と山瀬が攻めるという感じです。考えてみたらそのチームからプロサッカー選手が3人出たんですよね。
■「全然サッカーが楽しくなかった」中学時代に訪れた転機
中学では「札幌第一ジュニアユース」(現・ベアフット北海道)という札幌第一高校のジュニアユースチームに入って、もっとサッカーへ打ち込もうと思ってました。ところが中学2年生の秋ぐらいまで、身長が全然大きくならなかったんですよ。周りはどんどん大きくなって体格が変わっていっているのに、自分はあまり背が変わらなくて。
そのころはサッカーが全く楽しくなかったですね。札幌第一ジュニアユースは札幌市内のいい選手が集まるチームで、周りの主力選手は札幌や北海道の選抜チームなんかに入ったりするんですけど、自分だけ入れない時期もありました。
足も遅くてパワーもなくて、特別上手いわけでもない。サッカーが本当に面白くなかったですね。「何のためにサッカーやってるんだろう」って、やる気が無くなっている時期でもありました。ただ、中学2年生の秋ぐらいで、一気に身長が伸びたんです。
体つきが急に変わって体の強さや走力とか、ボールを遠くまで蹴る力なんかもすべてにおいてすごく変わりました。中学生になってようやく初めて自信を持ってプレーできるようになり、急激にまたサッカーが面白くなりました。
Jリーグがスタートしたのは、僕が中学1年生の時でしたね。当時のJリーグは毎週ほとんど水曜、土曜って1週間に2回試合があったじゃないですか。ちょうどその頃のチームは火曜、木曜、土曜が練習で、日曜が試合というサイクルだったので、水曜日には必ず試合を見られたんです。だから水曜も土曜もJリーグの放送があったので毎週本当に大興奮でしたね。
そうして見ていると「宮澤ミッシェル」というハーフの選手がいるというのを知ったんですよ。「フランスと日本のハーフなんだ」と思っていました。やっぱり自然とミッシェルさんのようなハーフの選手に目が行ってたかもしれないです。当時はとても珍しかったですからね。
自分に対する周囲の視線が変わってきたと、中学2年生ぐらいから少しずつ感じてました。そのころになると「ガイジンだ」「金髪じゃん」と口に出さず察してるみたいな感じで。「あ、あいつハーフかな」って目では見られますけど。そのころには変な悩みもなくなってたんで、さらにサッカーへ集中して打ち込むことができました。
中学校のときのチームは、札幌第一高校のジュニアユースチームという位置づけだったので、札幌第一高校のグラウンドを借りて練習してたんです。だから高校に入るときは推薦していただいて、受験をして札幌第一高校へ進学しました。ジュニアユースのチームから10人近く上がっていったという感じですね。
■「石崎君」になって絶望した日……
Jリーグを見て「プロサッカー選手ってカッコイイな」「プロ選手になれたらいいな」となんとなく夢があったんですけど、どうすればプロになれるのか、自分はどうすればプロに近づいていけるのかって、全く分かっていませんでしたし、自分がどういうレベルかも判断できませんでした。僕が高校1年生だったころ、当時はJFLに所属していたコンサドーレ札幌がJリーグを目ざして活動が本格化したのは知っていましたけど、選手たちは雲の上の存在でした。
ところが、たまたま高校で8歳上の先輩にセレッソ大阪や札幌でプレーしてた山橋貴史さんがいらっしゃるんですよ。今は日本サッカー協会に所属されて、トレセンを中心に指導してらっしゃる方です。その山橋さんが、たまに時間を見つけて高校のグラウンドに来て、一緒に練習をしてくださってました。
山橋さんが来てくれたとき、「こういう人がプロになるんだ」「これが基準なんだ」とプレーを見て感じましたね。山橋さんはプロの基準を身近に感じられる唯一の方でしたから。その山橋さんはとにかく技術がしっかりしていて、凄くスピードがあってという印象がすごくて「マジで上手いなぁ」「やっぱりプロって凄い」といつも思っていました。
ただ、高校時代の一番の思い出って、高校1年生の時に「キャプテン翼」に出てくる「石崎君」みたいな頭になったことですね。別に、1年生は丸刈りにしなければいけないというわけじゃないんですけど。
ある時3年生が何かの試合で「負けたら丸刈り」って言われていたんです。それで負けて、3年生はみんな丸刈りになったんですよ。そうしたら3年生が下級生に、「次、お前らも何かで負けたら丸刈りだからな」って、自然とそういう流れになってて。それである練習試合で負けてしまって。
丸刈り確定なんて本当に絶望的でした。その時はいろいろ考えましたよ。丸刈りにされるくらいだったら、部活どうしようかって。でもサッカー辞めたくなかったし。さすがに親も「あんた、ホントに髪切らなきゃいけないの?」みたいな感じだったんですけど、「みんなやるから、オレもやるよ」って。それで部室でバリカンの儀式です。
最初は同じクラスや野球部の友達とか、いろんな人にびっくりされましたけどね。「え? お前も丸刈りにしたの? 嘘でしょ?」とか、そんなやりとりをしたのを覚えています。
あとの高校の思い出というと、11月から3月までの冬は練習が外でできないんで、大変だったということですね。特に「校内走」というめっちゃきつい練習があったんです。学校中ずっと走って、階段を下から上まで登るんです。その後は筋トレをやったり。北海道の高校の冬は本当にハードですね。でも今思うとそのトレーニングでかなり鍛えられましたけど、もう絶対やりたくないです。
高校3年生になったとき、それまで縦に伸びてた身長と同じように横にもガッチリとしてきて、プレーも安定してきました。高校3年生の時の体つきは今とほとんど変わらない感じだったと思います。
3年生の時にインターハイの北海道大会で優勝して、全国大会に出て、全日本ユースにも出場することができました。10月には北海道選抜に入って国体にも出場しましたし、それまで継続してきたものが形として表れた1年になったんです。
ただ高校3年生になってもまだ、札幌と練習試合をしたら歯が立たなかったですね。「プロはこんなに上手いのか?」と思うばかりで。その時点ではどうやったらプロのレベルに到達できるのか何も見えませんでした。
■今でも後悔……財布に入れたままの日本を代表するレジェンドの名刺
高校で「超高校級」だとか「将来性がある」と思われてる選手は高校からでもプロに行くじゃないですか。でも僕にオファーは全くなかったし、来る気配なんて全くありませんでした。だから大学に進学して、4年間もう1回みっちりトレーニングしてプロに近づくしか道がないと決断しました。
それで大学に進学したんですけど、東京を通り越して大阪に行くんです。大阪体育大学で今も在籍してらっしゃる北村公紀さんというコーチの方がたまたま北海道出身だったんですよ。その北村さんが北海道のインターハイ予選を見に来てて、「大阪体育大学でサッカーをやらないか?」と声をかけてくださったんです。
大阪に行くなんて僕自身も両親も全く考えてなかったんですけど、お話しをいただいて考えてたら、自分は成長するために親元を離れた方がいいんじゃないかと思うようになりました。自立していくためにも寮生活にチャレンジしようと思ったんです。18歳で親元を離れて、精神的な成長はようやくその頃から始まったのかなと思っています。1人の大人として責任を持った行動をするということも、大学生活やサッカーで学ぶことができました。
大阪体育大学に行ったものの、北海道と大阪のギャップは相当ありましたね。到着して最初の数日で、「ここはもう異世界だ」と思いました。
知らない人が普通に話しかけてくるじゃないですか。学食で並んでいると学食のおばちゃんがいきなり話してくるんです。「お兄ちゃん、男前やな。沖縄やろ」とか。
「北海道です。ハーフなんです。」と答えたら、「ウソやん、顔見たら絶対沖縄やん」みたいな。初対面でもグイグイ話しかけてくるんで、自分にとって人と人との距離感が今までと違ったんですよね。
最初は関西の独特な雰囲気に慣れるのが大変でした。サッカー部にはいろんな地域から選手が集まっていたのですが、どちらかというと関東から来た選手とのフィーリングが合っていた気がします。結局、関西弁になかなか染まらなかったんですけど、でもついつい「?やん」とか話してました。今もたまにエセ関西弁が出ます(笑)。
大学では、もちろん勉強も大切だったんですけど、プロになりたいという目標を持ってたので、どうやってプロに近づいていくかというのを日々考えて過ごしてましたね。誘惑には気をつけて、大阪に来た目的というものを常に考えて行動をしていたと思います。「この4年間を自分のものにするも無駄にするも、全ては自分次第」だって。
学生でしたから、たまにはハメ外すことはありましたよ。でも何のために大学に来ているのかというのは、どんなときも頭の片隅に置いてました。親も「頑張ってこい」と送り出してくれてたんで、その期待にも必ず応えたいと強く思ってました。
大学1年生のときから関西リーグでプレーをしたり、関西選抜に入ってデンソーカップに出場したりする中で、ガンバ大阪やC大阪、ヴィッセル神戸や京都サンガなどとトレーニングマッチをする機会が何度かあって、自分の現在地を改めて知ることができました。
大学3年生のころから「プロになれるかもしれない」という感触を持てていて、大学4年生の時にC大阪から声をかけてもらったんです。「見てくれていたんだなぁ」と感謝の気持ちでいっぱいでした。
その声をかけてくださったのは今は亡きネルソン吉村さんと小菊昭雄さん(現・C大阪トップチームコーチ)だったんです。あとでいろいろな人からネルソンさんが現役時代にどれほど凄かったのか口々に言われ、そんな方からお話をいただけたことが本当にうれしく思いました。
ネルソンさんはその後、闘病中にも関わらずスカウト活動を続けてましたが、私が入団したプロ1年目2003年の10月に帰らぬ人となってしまいました。元気だった間に試合でプレーする姿を見せられなかった事は今でも本当に後悔しています。初めてお会いした頃に頂いた名刺は今でも財布の中に宝物として入れて持ち歩いて、たまに思い出したりもしてます。
■すべてを捧げてボールを奪う……プロ1年目に「本物」を見せてくれた世界の強豪
C大阪に入ったのが2003年で、大学4年生だった2002年はJ1昇格争いの真っ只中でした。そして11月16日に、引き分け以上で昇格が決まるというアルビレックス新潟との試合を長居スタジアムに見に行ったんです。(大久保)嘉人、アキ(西澤明訓)さん、森島(寛晃)さん、それから尹晶煥さんがいましたね。尹さんのロングパスから嘉人が先制点を決めました。
C大阪はその新潟戦に3-0と勝って無事にJ1昇格を決めました。そういう試合で選手のプレーを間近で見て、スタジアムの一体感も感じて、自分も活躍したいと強い気持ちを抱きました。
C大阪から正式にオファーをもらってプロになれると両親に報告した時、両親は「夢が叶ったね」「よく頑張ったね」と言ってくれました。僕は嬉しい気持ちもありましたけど、厳しいプロの世界に入ることを考えて「ここからが勝負だから。まだ喜んでいられないけどね」という話をしたのを覚えています。
プロ生活が始まったものの1年目はすごく高い壁が立ち塞がりました。最初の年は試合出場がゼロで、1秒たりともピッチに立つことはできませんでした。入団して1年ちょっとが経過した2004年3月にようやくデビューし、出場機会を増やしていったのですが、そこに至るまでには裏話があって。
プロになった1年目、入団して半年経った6月8日に、キリンカップの日本対アルゼンチンが長居スタジアムで開催されたんです。アルゼンチンには、ハビエル・サネッティ、ファブリシオ・コロチーニ、パブロ・アイマール、エステバン・カンビアッソ、ハビエル・サビオラとか、そうそうたるメンバーで、監督は現在プレミアリーグのリーズ・ユナイテッドで指揮するマルセロ・ビエルサさんでした。
そのビエルサ監督が日本サッカー協会に、「仮想日本代表を作って練習させてほしい」と要望したんです。それでC大阪とG大阪の若手がそれぞれ7、8人呼ばれて、合同チームを作ってトレーニングパートナーとなり、キャンプへ参加しました。
実はC大阪って、ちょうどその時期にセリエAのパルマと親善試合を行うことになってたんです。でも僕はそのパルマ戦のメンバーに入れなくて、クラブから「メンバー外はアルゼンチンの合宿の方に行ってきて」と言われました。
僕たちが仮想日本代表としてアルゼンチンの選手等にプレスをかけ、アルゼンチンはそこからプレス回避してビルドアップし、シュートを打つというトレーニング内容でしたね。同じピッチにはテレビやゲームでしか見たことない選手らがいて、トレーニングパートナーとはいえ一緒にプレーするというのは違和感でしかありませんでした。
技術レベルの高さには当然驚かされたのですが、一番衝撃を受けたのは、アルゼンチンのプレッシングでボールを奪いに来る時の気迫や強度でしたね。1つのボールを奪う一瞬に自分のすべてを捧げるみたいな、そんな感じです。
そんなプレーを見ると「今までオレは何をやってたんだろう?」「これくらい目の色を変えてボールを奪いに行かないとダメなんだ」というのを1つ1つのプレーで感じました。
ゲーム形式のトレーニングでアルゼンチンの選手たちがガンガンボールを奪いに来る中、最初はかなり圧倒されました。でも僕も同じプロとして自然と「負けてられるか」という思いが芽生え、途中からスイッチが入り、目の色を変えボールを奪いに行くようになったんです。
最終日にはフルピッチでゲームをしたんですが、僕はアイマールとのマッチアップが多かったんです。技術や駆け引きの上手さを体感できたのは財産となりました。
トレーニングパートナーとして参加したのは4、5日間だったんですけど、その数日間は自分自身を見つめ直す貴重な時間となりました。まさに「本物」というものを学びましたね。経験したことのないような刺激を受けて、自分に足りなかったものというのが見つかり明確になりました。
プロになって半年が経過していましたが、「1人前のプロになりきれていなかった。自分は本当に甘かった」というのを認識する貴重な体験となりました。もしその時、中途半端な形でパルマ戦のメンバーに入っていたとしたら、絶対その後は選手としてダメだったと思うんですよね。
あれが僕にとってまさにターニングポイントでした。あのトレーニングパートナーとしての時間がなかったら、プロとしてのキャリアは1、2年で終わっていた可能性もあったと感じています。
今振り返ると、プロ1年目の時に感じたような苦しさを、人間はどこかで経験しなければいけない、壁にぶち当たらないとダメなんだと思いますね。自分で意識を高く保ち、行動をコントロールできる人間はいいかもしれませんが、少なくともC大阪に大卒選手として加入した当時の私は「本物のプロ」というものになりきれてなかったと痛感しています。
■引退を決めたときに両親からかけられた言葉
その後ジェフユナイテッド千葉・市原、モンテディオ山形、湘南ベルマーレ、ギラヴァンツ北九州と全5チームを渡り歩き、様々な経験をさせていただきました。振り返ると私は全く一流の選手ではなく、まさに雑草でした。
子供のころも決して目立ったプレーヤーではありませんでしたし、プロになるなんて思われてもいなかったので、小学校や中学校のころの僕を知ってる指導者や友人は「あいつがプロになったの!?」ってびっくりしていると思いますよ。ましてプロで12年もプレーするとも思われてなかったでしょうし。なんせ僕は「石崎くん」ですから。(笑)
両親は高齢にはなりましたけど、元気です。現役最後の1、2年はそろそろ引退かもしれないという話をしていたので、引退を伝えたときにショックは一切なかったと思います。おそらく察してはいたでしょうね。
2014年の12月に引退を正式に決めた時は「よく頑張ったね。お疲れさま」という声をかけてもらいました。子供の頃からずっと応援してきてくれた両親には感謝の気持ちしかありません。両親の献身的なサポートがなければ今の自分はなかったと思っています。
父はプロのお菓子職人としての経験やプライドがあり、私はそれをずっとそばで見続けてきました。そんなプロフェッショナルな姿勢というのは背中を見て学ばせてもらったつもりです。多分父は僕のことを誇らしいと思ってくれたと思います。世代で言うと3度目の正直でプロ選手になったんですからね。
■デザートが美味しい千葉みなとにあるお店
父がお菓子職人ということもありますのでデザートが美味しい店というのをお教えしますね。千葉みなとにある「Ocean Table(オーシャンテーブル)」というレストランです。
そこは基本的にはイタリアンですけど、肉類や魚介類やあったり、子供も楽しめるものもありとても幅広いですね。とにかくメニューが豊富で美味しいので毎回お店に行くのが楽しみです。
デザートもたくさんの種類があります。デザートは何を食べても間違いないんで、僕はよく家族で食べられるようにデザートの盛り合わせを頼みますね。オーストリア繋がりで言うと、「ザッハトルテ」もあります。父はケーキやクッキーを作っていましたが、「ザッハトルテ」はオーストリアを代表するお菓子です。よかったらぜひ食べてみてくださいね。
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下村東美(しもむら・とうみ)
1980年12月18日、北海道出身。札幌第一高校、大阪体育大学を経て2003年にセレッソ大阪に加入。2007年からジェフユナイテッド市原・千葉、モンテディオ山形、湘南ベルマーレ、ギラヴァンツ北九州と渡り歩き2014年に引退。2019年湘南ベルマーレコーチを務め、2020年にエリース東京テクニカルコーチに就任。
有料WEBマガジン「森マガ」では、後日、栗原選手インタビューに関する「インタビューこぼれ話」を公開予定です。
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森雅史(もり・まさふみ)
佐賀県有田町生まれ、久留米大学附設高校、上智大学出身。多くのサッカー誌編集に関わり、2009年本格的に独立。日本代表の取材で海外に毎年飛んでおり、2011年にはフリーランスのジャーナリストとしては1人だけ朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の日本戦取材を許された。Jリーグ公認の登録フリーランス記者、日本蹴球合同会社代表。2019年11月より有料WEBマガジン「森マガ」をスタート