「スーパーサッカー」は守り抜いた……伝説のテレビマンが明かす中継の苦悩と舞台裏【サッカー、ときどきごはん】
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「スーパーサッカー」は守り抜いた……伝説のテレビマンが明かす中継の苦悩と舞台裏【サッカー、ときどきごはん】(J論プレミアム)
TBSの元プロデューサー・名鏡康夫氏は1993年のJリーグ開幕から続く番組「スーパーサッカー」やワールドカップ中継などに長く携わってきた伝説のTVマンだ。
これまで番組は何度か存続の危機に立たされ、ワールドカップアジア予選の中継では予想もしなかったハプニングに見舞われた。
日本サッカーの興隆をTVの現場で見てきた名鏡が振り返る歴史は日本サッカーの裏面史でもある。
そして現在、テレビ局とサッカー番組の現状について何を思うのか。じっくり話を聞いた。
▼「スーパーサッカー」で防波堤になってくれている人物とは?
僕はTBSに途中入社したんですよ。最初はフジテレビ系のテレビ番組制作会社でした。
大学ではサッカー好きでプレーもしてたんですけど、バンド活動に熱中したそういう学生生活を送ってました。就職の時期になって、自分はちゃんとしたサラリーマンに向かないと思ったんで、元々大好きだったテレビの世界を目指したんですよ。でもコネもないし成績もそんなによくなかったから、プロダクションに強引に潜り込んだというのが始まりですね。
最初はアシスタント・ディレクターから一歩ずつですよ。コーヒー買ってこい、タバコどこだから始まって。仕方がないですよね。テレビはなんぞやということも知らないから。寝る間もないくらい、食事する暇もないくらいこき使われました(笑)。
そして努力が認められてディレクターに昇格して29歳のときにTBSに中途採用されたのですけど、その後スポーツ局に異動するという転機があったんです。最初に「JNNスポーツチャンネル」というスポーツニュース番組をやって、定岡正二さんとか亡くなった小林繁さんと番組を作ってたんです。年齢的には30歳を超えたので、デスクみたいな立場でした。
「NEWS23」では立ち上げの時からスポーツコーナーを担当しました。当然野球から他のスポーツまで取り上げて取材にも行ってたんですけど、当時はJリーグなんかなかったですからね。サッカーはマイナーで、なかなか取り上げにくかったんです。
けれど、デスクになるといろいろ自分で差配できるようになって、雨が降ったときなんかは「おい、ちょっと日本リーグに行こうぜ」って言って、西が丘なんかで日本サッカーリーグを取材して、それを放送したりしてました。
そのころに忘れもしない、ソウル五輪のサッカー予選最終戦があったんです。1987年10月4日に行われたアウェイの戦いで日本は中国に1-0と勝って、10月26日の最終戦では引き分け以上で五輪出場という試合だったんです。
それで「今、サッカーが熱い」という特集をやったんですよ。亡くなった岡野俊一郎さんをスタジオに呼んで。日本がオリンピックに近いぞ、これからまたメキシコ五輪の後のようにすごくなるぞ、日本サッカーリーグにもブラジル代表のキャプテンだったオスカーも来てプレーしてるぞ、って。でも、結局0-2で敗れて五輪には出られなくて。
ただ、そういうのを一生懸命やってたら、局の中で「アイツはサッカー好きだ」って言われるようになったんです。当時、TBSの中ではやっぱり野球がメジャーだったんで、サッカーの知識を持っている人が少なかったんですよ。それで、ときどきサッカーに関して「これ知ってるか?」って聞かれて答えていたら「サッカーに詳しい」って陰で認められてた(笑)。いわゆるサッカーオタクのはしりだったかもしれません。
スポーツの中ではやっぱり野球が一番でしたね。エリートコースといえば野球の球団担当、特に巨人担当になったり、野球中継をじっくりやってのし上がっていくというのが、よくある道だったと思います。TBSの局内だと、あとはゴルフやボクシングが伝統的に注目されてました。あとはその他という扱いで。
ところがJリーグがスタートするということになり、サッカーにも注目してもらえるようになったんですよ。そこでいくつか企画を出して番組を作りました。関東大学リーグのハイライト番組とか、Jリーグ開幕前の1992年にやったヤマザキナビスコカップのダイジェスト番組とか。それでJリーグが始まるから番組をやろう、となったところで僕がプロデューサーからチーフディレクターをやってくれないかと指名されたんです。
それで1993年に「スーパーサッカー」という番組を立ち上げたんです。サッカー専門の番組なんだけど、サッカーの詳しい人にだけを対象にするんじゃなくて、まだサッカーに興味のない人にも見てもらえるようにと思いました。ただ、バラエティチックになりつつ、筋を外さないようにって。そういう考えでずっとやってたんです。
もちろんサッカーの人気も上がったり下がったりがあったんで、そういうのも全部経験しました。ただスーパーサッカーは、サッカー自体の人気が落ち込んだときも企画は面白いと思ってもらえたようで視聴率はよくて。だからなかなか番組が終わらなかったんです。今は全国ネットから関東ローカルになっちゃったんですけど、まだ続いてるのはうれしいですよ。
辛いことはあまり感じなかったなぁ。もう番組が終わってたら辛かったんでしょうけどね。自分の誇りの1つは自分が辞めるまでなんとか続いて、今も続いてるということなんです。途中、番組が終わりそうになったときはあったんですけど、そこは何となく動いて継続できたもんで(笑)。
テレビ局って「枠の取り合い」というのがあるんですよ。スーパーサッカーの1番の危機のときは格闘技がブームで、TBSも大晦日に格闘技の番組をやって、いい視聴率を取っていたときでした。スーパーサッカーをやってる枠で格闘技をやりたいと言い出した人たちがいたんです。
そのころってサッカーがちょっと落ちた時で、何とかしたいけれどサッカー単体では苦しいという感じでした。それでスーパーサッカーにスポーツニュースを吸収して武装したんです。そのおかげで番組は継続できたんですけど、一部のサッカーファンからはすごく顰蹙(ひんしゅく)を買いました。「スーパーサッカーで他のスポーツをやるな。なんで野球のことなんかやるんだ」って。
でもね、見てもらったらサッカーがメインだったでしょう? それまでって野球のニュースがバーンと出て、サッカーはちょっとだけだったじゃないですか。それを何とかサッカーが中心の番組にしたんですよ。野球の人たちからは文句が出てきたりもしたんですけどね。あとは全国ネットから関東だけで放送されるようになった時もちょっとあったんですけど、どれも何とか乗りきったんで続けられたんです。
番組の枠を移動したこともありましたね。月曜日にしたり金曜日にしたり、それで日曜日に落ち着きましたけど。ともかく、どうにかしてスーパーサッカーを続けたいという思いがみんなにあって。
特に加藤浩次はそういうのを意気に感じてくれてました。彼も今、すごく強いタレントになったじゃないですか。だから彼がいろいろ防波堤になってくれてるというのもありますね。僕が辞めた後に番組はどうなるだろうと心配もしたんですけれども、みんな頑張ってくれてるし。僕はすごくうれしいですよ。
サッカーの担当になって、結局定年まで30年間やり通しました。こういう組織の中では当然いろんな部署を回されますし、スポーツでは稀にずっと同じ担当というのがいるんですけど、それでも他の競技もやるっていう感じなんです。そんな中で最後までサッカー専門だったのは僕だけでしたね。
だから本当にJリーグの開幕と同時に僕の人生も変わっちゃったなって。サッカーは好きでしたけどこうなるなんて全然思ってもみませんでした。
▼ワールドカップ予選のインド戦で視聴率が伸びた意外な原因
長くやって来たんで、いろんなトラブルも経験しました。
2004年、ジーコジャパンがワールドカップ予選でインドに行ったんです。その中継を担当したので、まず下見に行ったら現地がすごく盛り上がってたんですよ。現地のテレビ局が来て僕たちが取材されて。
「どういう規模で試合をするんだ」「カメラは何台なんだ」「どこにカメラを置くんだ」とか。それで僕らを撮影して行くんです。なんだろうって不思議に思ってたら、イブニングニュースに僕が出てました。「この試合のために日本からテレビ局が視察に来た」って(笑)。
それで現地で機材を手配したんですけど、いざ現地で組み立ててみたらボロボロで、日本に映像を送る回線がうまくいかないんです。通常は本線とバックアップの2本を用意するんですけど、バックアップが通じない、役に立たないんですよ。しかも代わりの機材は間に合わない。今だから言えますけど、あの試合はバックアップがなかったので本線が落ちたら終わりでした。怖かったですよ。祈るしかなかったです。
しかも試合中に肝を冷やすことが起きましたよね。途中でスタジアムが停電したんですよ。それで放送時間も延びました。あの試合は最後まで放送しなければいけないという契約があったので、本社の編成担当に言って、鶴の一言で延長が決まりました。
本社からは「復旧の状況はどうなんだ?」って聞かれるんですけど、「そんなのわかんないよ」って。ただ真っ暗じゃなかったんですよ。半分ぐらい明かりもあって、ほんのり見えていたんですよ。それで「とりあえずこの状況の映像を流すしかないぞ」ってことになったんです。
それでカメラに回せって映し始めたら、暗い中でインド人が日本ベンチに来てジーコにサインもらってたりしてました(笑)。レポーターの佐藤文康アナウンサーに「マッチコミッショナーを探し出せ!」って言ったら、「部屋に入って出てこないんです!」って。
「通路が真っ暗で大混乱してます!」とも言うから「それをレポートしろ! 緊迫感を伝えろ!」ってやってました。本社にはテロップで状況を伝えてくれって言って。30分ぐらいでやっと復旧して、それで試合と中継が続けられたんです。
その日の夜、NEWS23のスポーツコーナーに現地からの枠があったんですよ。スタジアムに最後まで残って、空のスタジアムで試合を振り返るっていう内容です。時間が来て中継をつないでさあ始まる、という時に、いきなり音が出なくなったんです。
「どうなってんだ!」って現場は大混乱でしたけど、わからない。それで本社のほうで「じゃあ締めます」って終わっちゃったんです。放送の後に原因を調べたらなんてことはない、インド人のスタッフがプラグ抜いちゃってたんです。片付けたって。
その日の夜はホテルで「自分たちのせいじゃないけど申し訳なかった。関係各所にいろいろお詫びに行かなきゃいけないんだろうな」と落ち込んでました。すると翌朝、本社から電話がかかってきて「名鏡、ありがとう! 視聴率20パーセント行ったよ!」って。「えぇ? あんな試合なのによかったんですか?」って驚いてたら、停電以降がすごかったって。
帰ってきてグラフを見たら、確かに停電以降がグッと伸びてたんです。視聴者の人ってアクシデント大好きなんですよ。2004年ですからインターネットも発達してて、ネット上で「大変なことになってる」って話題になったと思うんですよね。
さらにそのインド戦のおかげで、その週の視聴率でTBSが1位になったんです。それでコロッケパーティーを開いてもらいました。
視聴率がよかったときって、関係者が呼ばれてコロッケパーティーという伝統があるんです。「視聴率がアガった」にかけて「アゲ物」を食べるんですけど、そのとき視聴率に貢献したのがドラマ「渡る世間は鬼ばかり」と僕たちで。プロデューサーの挨拶では、石井ふく子さんが話をなさったあとに、僕が「停電で視聴率が伸びました」って言って笑ってもらいました。
▼いまでも忘れられない平壌で開催された北朝鮮戦の中継
2006年9月6日に行われたアジアカップ予選、イビチャ・オシム監督時代のイエメン戦のときも酷かったんですよ。イエメンは中東でもあまり裕福ではない国で、現地のプロダクションの中継車を見たら、これは何十年前のだよっていう年代ものでした。
そのときのコーディネーターはレバノン人で、これが食わせ者だったんですよ。最初は英語も話すし、しっかりしてると思って任せてたら、これがとんでもない。中継車って普通はスタジアムの外に置くじゃないですか。ところがセッティングに行ってみたら陸上トラックの、しかもメインスタンド前に置いてあるんですよ。
しかも用意していた当日のカメラマンが本当に下手で、見られたもんじゃない。途中から「うちで画を作ろう!」って、現地が作っている国際映像を諦めて、数少ない自分たちが持っていったカメラを中心に放送用の映像を作りました。ホント……イエメンは大変でした。
2010年南アフリカワールドカップのときも焦りましたね。ベスト16のパラグアイ戦がラッキーなことにTBSになったんです。TBSはグループリーグの日本戦の放映権を持ってなくて、日本が勝ち進まないと放送できなくなってたんですよ。ところが大会前って岡田武史監督もチームもあまり成績がよくなくて、期待できない感じだったんですね。
それで僕たちの予算も削られててホテルなんかもすごく苦労して手配しました。安い以上に安全なところを押さえなきゃいけなくて。ベスト16に進出することは想定して中継車を借りる準備はしていたんですけど、NHKさんに相談して、日本代表が1位通過したらNHKさん、2位通過したらTBSが借りるということにして、キャンセル料がかからないようにしてたんです。
それで中継車の手配は出来たんですけど、いろいろ足りないわけですよ。たとえば試合になるとプレゼンテーションスタジオというのが付いてくるんです。スタジアムが見えるところから「明日はこういう試合があって勝てばこうなる」というような説明をアナウンサーと解説者が並んで語ったりするスタジオですね。
ところが日本戦が急に決まったんで、スタジオには装飾するものが何にもなかったんです。一応念のためボードみたいなのを作って持ってきたんですけどそれしかない。それで現地のホームセンターに行って、テーブルやイスでちょっと見栄えのいい物を買って。花屋さんにはサッカーをモチーフにした飾り物があったんで、「売り物じゃない」と言われたんだけど頼み込んで買ったりして飾ったんです。
日本でも盛り上がってたんで、東京の本社から電話があって「何だったら予算つけるぞ」って言われたんですけど、「わかった」っていいながら遅いよって。ただすぐに技術スタッフは何人か南アフリカに送ってもらいました。
このときのバックアップ回線は、日本のキャンプ地のジョージに持っていってた機材を使うことにしました。いつもはジョージのホテルに置いてレポートしてたりしたのを、1200キロ以上離れた試合会場のプレトリアに持って行くことにしたんです。ところが宅配便の会社は重いから無理だと断ってきたんですよ。途方に暮れてたら技術のスタッフが街の中にあるトラックの会社と交渉して陸路で運んでもらいました。それで試合にぎりぎり間に合ったという感じでしたね。修羅場くぐりました。
2014年10月14日にシンガポールで行われたブラジル戦は技術的に難しかったですね。と言うのも、ブラジルのスポンサーはナイキさんで日本はアディダスさんなんですよ。だから日本向けの映像とブラジル向けは映っているものが違うんです。
日本向けの映像はアディダスさんが入った日本向けの広告が並んでます。ところがブラジル向けの映像は反対サイドのスタンドから映していて、そこからはナイキさんやブラジル向けのスポンサーの看板が並んでるようになってるんです。だからチラっとは見えるんですけど、向こうからはナイキさんの看板がズラリと、こちらから写すと日本向けの看板ばかりが見えたんですよ。
事前に僕達とブラジルのプロダクションが集まってやった話し合いは大変でしたね。大混乱でした。カメラマンのポジションだけじゃなくてケーブル、お互いが使う部屋、ミックスゾーン、記者会見場への導線をどうするかとか、いろいろあるんです。通常、こういう話し合いは長くても2時間ぐらいで終わるんですけど、その時は3、4時間かかったと思います。
いろんな思い出の中で2011年11月15日、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の平壌で開催された北朝鮮戦は忘れられないですね。
現地の下見に行ったとき、泊まったのは平壌高麗ホテルという外国人向けの一番いいホテルでした。45階建てですごく大きいんですけど宿泊客があまりいなくて。部屋には鏡がやたらあったと思います。
着いた夜に歓迎会があって、焼酎をどんどん飲まされて、一緒に行った技術の人間が飲めないんでそのぶんも飲んでたらベロベロになっちゃったんですよ。部屋に戻って横になってたんですけど、気持ち悪くなってトイレで吐いちゃって。そのときトイレの周りも汚しちゃったんですけど、気持ち悪くて掃除できずにいたんです。
朝起きて打ち合わせに行こうと思って、「あ、そうだ、トイレ汚してたんだ」と思って見たらきれいなんですよ。「あれ? 夢見たんじゃないか?」と思ったんですけど、よく見たら拭き残しがあったんです。「誰だ? これきれいにしたのは。うちのスタッフのはずはないし、何よりどうやって入ってきたんだろう」って。あれはちょっと不思議な出来事でした(笑)。
技術の人間にも不思議なことがあったんです。ホテルに入って東京に電話が通じるのを確認したとき、「結構寒い」って言ってたら、翌日毛布が用意されてたんです。すごい究極のおもてなしの国でした。なんて親切な国なんだって(笑)。
試合の時は羊角島国際ホテルというところが宿泊場所で、1階にカジノがあったんですけど流石にみんな行けなかったですね。レストランはいくつかあったんですけど、違うレストランに行ってもどこも店員が同じでしたね。不思議なことに。
それから部屋にインターネットの回線を引いてもらったら、TwitterとかFacebookができました。北朝鮮に入る前の中国ではどっちも出来なかったんです。こっちではつながるんだってビックリでしたね。
中継のセッティングは普通なら試合前日に終わるんですけど間に合わなかったので、試合当日の早朝から作業しました。するとある時間になったら急に「終わりだ」と言ってスタジアムから出されたんです。仕方がない。従うしかないんです。
「戻ってくるのは試合の1時間前」と言われてみんなで焦りました。それでもホテルに戻って待機するしかなかったですね。それでいろいろ考えてたんです。ひょっとしたら、何か見られたくないものがあるんじゃないか、あるいは誰か、ひょっとしたらあの方が来るのかもしれない!って。
それでスタジアムに戻されたときには、もう満員でした。そこからマスゲームが始まったんです。結局マスゲームの練習を見られたくなかったんですね。先に放送されたくなかったんですよ。
放送では1つ気を付けていたことがありました。それは「北朝鮮」という言葉をどうするかということです。
僕が下見のときに「北朝鮮」と言ったら、現地のガイドの人に怒られたんですよ。「今、北朝鮮と言いましたけど、そんな国はありません。ここでは朝鮮か共和国と言ってください」って。それから僕は「共和国」と言うようにしてました。
でも後で考えたら、中継では当然「北朝鮮」と言うしかないんです。そこで土井敏之アナウンサーと話をして、「必要最小限に止めよう」ということにしました。刺激するのはいやですからね。
東京の本社には「万が一、放送の途中で『北朝鮮』という言葉を使わなくなったら察してくれ」と言っておいたんです。「なんで言わないんだ」と責めないでくれ、察知してくれと。そういう話もしてましたね。結局、最後まで北朝鮮と言っても問題にはなりませんでした。
最後の打ち上げには北朝鮮の偉い人たちが来て、流暢な日本語で「今日はいい放送でしたね」と言ってくれました。「見たことがある人だなぁ」と思ったので帰国して調べてみると、小泉純一郎首相が訪朝したときに通訳をしていた人物でした。
ホテルに戻ったら、従業員の人たちが緊急放送の日本戦を見てましたよ。それまでなんで僕たちが来てるかわかってないようでした。やっと試合が終わった後に北朝鮮国内で放送されてたんですよね。その人たちが喜ぶ姿が印象的でした。
もちろんこんなシリアスじゃないハプニングなんかはたくさんあります。2008年2月に中国の重慶で開催された東アジア選手権(現E-1選手権)のことはよく覚えてます。
取材に行くときって、一応僕が団長なんです。重慶のホテルに到着したら僕の部屋は20階建てホテルの10階で非常にいいところでした。ところが係員がやって来て「すみません、部屋を変わってください」って言うんですよ。ここでいいのに、と思っていたら、何と最上階の20階で、しかも周りが全部ガラス張りというスイートルームになったんです。どうやら団長ということで手厚く扱ってもらったんですよ。
ところが2日後に社長と常務らお偉方が4人が重慶に来たんです。しかも僕たちと同じホテルに宿泊して。僕は社長よりいい、最高級の部屋に泊まっちゃってるんです。あるときエレベーターで一緒になっちゃって、僕が社長より上の階のボタンを押してたもんだから、社長は「あれ? どうしたんだ?」って。僕はとっさに「広告代理店の方と上で打ち合わせがあります」と言って誤魔化しました。あれも焦りましたね(笑)。
▼「おい! エレベーター止めてろ!」という叫び
テレビはいろいろ取材したとしても、放送で使っていない部分が多いんです。3分の企画だとして10倍以上は放送できてない映像があるかもしれないですね。それでも撮影した映像は全部見ますし、それから全部文字を起こしたりします。たとえば野球のニュースにしても、1試合全部カメラを回してそこから1分にしますからね。しかもカメラは1台じゃないし。それに毎日あるんです。
だから「瞬時に決める」というのが勉強になりましたね。迷ってたらダメなんですよ。時間との戦いなので瞬間に決めてそれでやる。ぐずぐずしてたら間に合わない。通常の番組、たとえばバラエティの番組を作るときは迷うんですよ。撮影してきたいい素材がたくさんあるので。30分の番組だとしても、最初の編集だと1時間ぐらいになっちゃうんです。そこから縮めていって30分の番組にするんですよね。でもスポーツの場合は素材を使うかどうかすぐ決めて、どんどん進めなければいけませんでした。判断力は付きましたね。
放送が始まっているのにVTRが出来てないなんてしょっちゅうですよ。番組のCMの最中に「どうだ?」「まだ編集してる!」なんていうやり取りがあるんです。スタジオと編集している部署が違う階にあって、VTRが出来上がりそうになるとアシスタント・ディレクターがエレベーターを押さえ、他のスタッフがリレーしてスタジオに持っていくんです。本当にギリギリなんで心臓に悪いんですけど、それを味わっちゃうと楽しくなってくるんですよね。
スーパーサッカーでもJリーグのナイトゲームの試合なんかは本当に大変でした。僕はオンエアの責任者なんですけど、編集してましたからね。「おい! エレベーター止めてろ!」って叫びながら編集してました。
生放送っていうのもまた楽しいんです。時間が来たら終わっちゃいますから。トラブルがあっても、時間の枠が広げられなかったら時間で終わっちゃいますし。それまでの準備と、その放送中に起きることにハラハラして。そういうのは経験したら止められないですね。度胸付くというのかな。
それからパニックになった時って、誰かそのピンチから脱出できる、機転の利く人間が必ず現れるんです。そこで人間力が出てきますね。わめくだけの人間もいれば、ひらめく人間もいるんです。土壇場で瞬時に反応できるスタッフというのは本当にすごいですよ。
Jリーグの中継で、日産スタジアムに両チームが入ってくるところを撮影することになってたんです。だけど日産スタジアムってバスの到着するところが離れてるんですよね。カメラ1台で撮影に行ってたら、運が悪いことに2チームが同時に入ってきたんです。
そうしたらそこにたまたま視察に来ていたベテランのカメラマンがいて、みんなが慌てて「どうする!」ってなってたときに、瞬時にiPhoneで動画を撮ったんです。しかもカメラマンだから、画角もしっかりしてるし、映像もきれいだし。そのまま中継車に持っていって放送できたんです。僕は後で聞いてビックリしました。
今後テレビのサッカー放送は……うーん、なんとも言えないですね。難しい。コンテンツをどう差別化するかということだと思うんです。いくらオンラインでサッカーが見られるといっても、テレビ局がサッカー番組をやる意義はあると思います。
ただテレビに支払われる広告費をネットの広告費が上回りましたから、テレビが生き残れるかどうかの瀬戸際だと思います。それでもテレビを点ければサッカーが見られるというのは続いていってほしいし、スポーツは手軽に見られるのが第一だと思いますから。
▼和洋中全て海老を頼むぐらい大好物
僕は何でも食べるんです。それこそ街の洋食屋さん、それこそ洒落たヤツじゃなくてナポリタンに味噌汁が付いてくるような洋食屋さんも好きです。
食べ物に関して言えば、大好物は「海老」です。和洋中全て海老を頼みますね。海老フライとか、お寿司も海老です。知り合いのサッカー選手からからかわれるくらい好きなんですよ。
海老が美味しいレストランで言えば、銀座にある「銀座 海老料理&和牛レストラン マダムシュリンプ東京」、それから大手町にある「海老&ワイン酒場 エビキング 東京・大手町店」、特にエビキングはお勧めですね。世界中の海老が食べられます。
「世界の海老刺し盛り合わせ」という料理を頼むと、各国の海老を食べられますよ。それにその日の気分によって海老グラタンとか、グリルとか生で食べたりとか、どれも満足できると思います。とても美味しいので、行ってみてくださいね。
・銀座 海老料理&和牛レストラン マダムシュリンプ東京
・海老&ワイン酒場 エビキング 東京・大手町店
→「サッカー、ときどきごはん」過去ログ:
・僕のサッカー人生は一度終わっているようなもの……GK林彰洋が初めて明かす知られざる苦悩
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名鏡康夫(めいきょう・やすお)
TBSの元プロデューサー。同局の「スーパーサッカー」は1993年の放送開始から携わった。サッカー中継も数多く担当し、ワールドカップ・南アフリカ大会では日本vsパラグアイ戦が平均視聴率57.3%、瞬間最高視聴率64.9%といずれもTBSの最高記録となった。
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森雅史(もり・まさふみ)
佐賀県有田町生まれ、久留米大学附設高校、上智大学出身。多くのサッカー誌編集に関わり、2009年本格的に独立。日本代表の取材で海外に毎年飛んでおり、2011年にはフリーランスのジャーナリストとしては1人だけ朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の日本戦取材を許された。Jリーグ公認の登録フリーランス記者、日本蹴球合同会社代表。2019年11月より有料WEBマガジン「森マガ」をスタート
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