捲土重来。別れ際の挨拶でにじんだ森下仁之の本心
4年にわたって監督を務める森下仁之氏をよく知る中倉一志が、その人物像に迫った。
▼聞き上手ではなく、話させ上手
「不思議な雰囲気を持った人だなあ」
それが現・ツエーゲン金沢監督、森下仁之氏に対する筆者の第一印象だった。
初めて出会ったのは、アビスパ福岡のトップチーム・ヘッドコーチとして2009年に福岡へやって来たとき。福岡の取材を始めてすでに10年が過ぎていたが、それでも、初めて会う人には、それなりの壁が存在する。ましてや、プロサッカー選手として10年のキャリアを持ち、当時、すでにユース年代を中心に、指導者として12年の経験を持っていた森下氏に対して、ある種のリスペクトと、初めてインタビュー取材をする緊張感を筆者が感じていても、それは当然のことだった。
しかし、話してみるとまったく壁が存在しない。こちらが心を開いたわけではない。知らず、知らずのうちに心を開かされてしまったというのが正直な感覚だった。当時の取材音声は、いまも私のPCの中に保存されているが、こちらが話を聞いているはずなのに、いつの間にか森下監督の柔らかな雰囲気に引き込まれて、むしろ、こちらが話している時間のほうが多くなっている。しかも、何の違和感もない。聞き上手と言うよりは、話させ上手という言葉がしっくりと来る。
また、私の少ない経験から言えば、サッカー界で長く仕事をしている人たちは、それぞれが自分のサッカー観を持っており、言葉の端々や、ちょっとした態度に自信や信念が感じられるモノだが、それも見事に裏切ってくれた。もちろん、森下氏が情熱や信念を持っていることは、その後の仕事ぶりや、現在のツエーゲン金沢の成績を見れば明らかだが、それをまったく感じさせない。そしてまた、ついついこちらが心を開いてしまい、余計なことを口走ることになるのだが、そんな私の話をいつも穏やかな表情で興味深そうに聞いていた。
▼サッカーの魅力に対するこだわり
2010年の宮崎キャンプでのエピソードも、”森下仁之らしさ”を象徴する出来事として、いまも強く私の心に残っている。このシーズンは福岡の強化部長に就任して最初のキャンプ。メディアの忌憚のない意見を聞きたいということでキャンプ中に懇親会が開かれた。
懇親会の趣旨にのっとって”無礼講”ということではあったが、そこは、みんな社会経験をそれなりに積んだメンバーばかり。一般社会において、無礼講が存在しないことは誰もがわきまえていた。しかし、気が付けば、誰も彼も言いたいことを口にし、中には、そこまで言うかという意見を口にする者もいた。そして、森下氏はいつものように笑顔を浮かべて、楽しそうにメディアの意見を聞いていた。
強化部長に就任した当初、アビスパのそれまでの経緯について、いろいろな話をさせていただいた。そんな私の話を聞きながら、森下氏が口にしていたのは「サッカーにはいろいろなスタイルがあるが、地元の人たちが面白いと思ってくれるサッカーでなければ意味がない」という言葉だった。そのため、福岡の気質や、サポーターが何を望んているのか等々について、何度も意見を求められたことを思い出す。「今日のサッカーをサポーターは喜んでくれていましたか」。試合後には、必ずと言っていいほど問いかけられた。
2010年の福岡のサッカーは、まさに、そういうサッカーだったように思う。失礼を承知で言えば、決して戦術的な精度や深みを感じさせるチームではなかった。このシーズン、福岡は5年ぶりのJ1復帰を果たすのだが、パスの本数、決定機の数、アクチュアルプレーイングタイム等々、試合の内容を表すさまざまな指標はJ2の中でも低かったように記憶している。しかし、他を圧倒する豊富な運動量と、シンプルに相手の最終ラインの裏を狙うサッカーは、リーグ3位に当たる63得点を記録。その攻撃的なサッカーは福岡サポーターの心を捉えていた。
それでも、強化部長としての腕を十分に振るうだけの環境が、用意されていたとは言い難い。2009年シーズン終了後、クラブはJ1昇格のために3年計画を打ち出したが、開幕前にフロント陣が刷新され、すでに陰りが見えていた経営環境を改善するため、黒字化が最優先課題とされたからだった。事実上、3年計画は棚上げされ、昇格を果たした後も、クラブは黒字化だけを追いかけた。そんな中で、森下氏は限られた予算で最大の補強を実行したが、J1残留のために必要な戦力がそろったのかと問われれば、必ずしもそうではなかった。
▼再会への期待感
そうした事情から、クラブは当初、昇格を果たした監督、スタッフ、そして選手の下でチームとして成長することができれば、その結果については、どんな結果であっても受け入れる態度を示していた。しかし、シーズン途中に監督を解任。そして、チームは再びJ2に降格することになる。誰のせいでもない。チームとしての力不足が最大の要因だった。だが、シーズン終了後、森下氏をはじめ、スタッフ全員がクラブを去ることになる。
森下氏が福岡を離れることになったことについて、クラブは円満解決と話した。当時の森下氏がどのような想いを抱いていたかは本人にしか分からないことだが、チームが離れることが発表された後も、いつものように穏やかな表情で残務処理に務めていた。しかし、その胸中にさまざまな思いがあったことは想像に難くない。チームを離れるとき、「またどこかのスタジアムで会いましょう」と挨拶した私に穏やかに接しながらも、一瞬だけ、私が知っている森下監督の表情とは別の表情を見せたからだ。”必ずやり返す”。そう言っているように見えたのは、決して私の思い過ごしではなかっただろう。
その後のツエーゲン金沢での活躍については、私が語るべきことは何もない。いま思うことは、監督とライターという立場の違いはありながらも、同じJ2を戦う仲間として再びスタジアムで会うことができる喜びと、対戦したときには福岡が勝たせてもらうという思いだ。恐らく、森下監督も同じことを思ってくれているのではないかと勝手ながら思っている。Jリーグの舞台での再会の日は6月21日(日)のレベルファイブスタジアム。その日が来るのが待ち遠しい。
【プロフィール】
森下 仁之(もりした・ひとし)
1967年12月9日生まれ、45歳。静岡県出身。静岡県立浜名高校→国士舘大学(中退)
[?選手歴]
1987年-1995年/PJMフューチャーズ
1995年-1996年/鳥栖フューチャーズ
[指導歴]
1997-2001年/静岡県立浜名高等学校サッカー部 コーチ
2001-2002年/コンサドーレ札幌ユース(U-15)コーチ
2002-2006年/コンサドーレ札幌ユース(U-15)監督
2007年/コンサドーレ札幌育成部 部長
2008年/ジュビロ磐田ユース(U-15)コーチ
2009年/アビスパ福岡トップチーム・ヘッドコーチ
2009年11月-2011年/アビスパ福岡チーム統括部長
2012年-現在/ツエーゲン金沢監督
中倉一志
1957年2月生まれ。福岡県出身。小学校の時に偶然付けたTVで伝説の番組「ダイヤモンドサッカー」と出会い、サッカーの虜になる。大学卒業後は、いまやJリーグの冠スポンサーとなった某生命保険会社の総合職として勤務。しかし、Jリーグの開幕と同時にサッカーへの想いが再燃してライターに転身。地元のアビスパ福岡を、これでもかとばかりに追いかける。WEBマガジン「footballfukuoka」で、連日アビスパ情報を発信中。