“輝かしくない”水戸ホーリーホックが、3年連続黒字となった「3つのきっかけ」
クラブを取材して10年になる佐藤拓也が、成績低迷にもかかわらず経営改善を為し遂げたクラブの転機を語る。
▼「水戸をJリーグに上げたのは失敗だった」
今年で水戸ホーリーホックはクラブ創立20周年を迎えた。ただ、これだけ輝かしい出来事のない20年も珍しい。
水戸を取材してきた中で忘れられない言葉がある。それは7、8年前、Jリーグ幹部を取材した時のこと。取材の終わりに自分が水戸を取材していることを伝えると、その幹部は少し考え込んで、「水戸をJリーグに上げたのは失敗だったね」と真面目な表情で口にしたのである。決して水戸を非難しようとしたわけではなく、あくまでそれは心からの声のように聞こえた。
確かに「失敗」だったと言わざるを得ない。
Jリーグに昇格した00年当時、水戸はホームタウンにJリーグ基準のスタジアムを持っていない状態だった。さらに経営においても責任企業が支えているわけではなく、初代社長の故・石山徹氏の個人の財産で支えられて運営されている状態だった。明確な基準で審査されてライセンスが発行される今ならば、間違いなくJリーグに上がることはなかっただろう。しかし、当時は「Jリーグの仲間を増やしていこう」という風潮があった。周囲から後押しされてJリーグ参入を認められることとなったのだが、それからが苦しみの連続だった。
「市民クラブ」と謳いながらも水戸市に活動拠点を持たないため、ホームタウンと密接な関係を築くことができず、スタンドは毎試合閑古鳥が鳴く始末。それゆえにスポンサーも増えず、さらに08年には宮田裕司社長(当時)の飲酒運転が発覚したことによってスポンサー離れも進み、経営難に拍車がかかった。かつてともに経営に苦しみ、リーグ下位に低迷していたヴァンフォーレ甲府やサガン鳥栖といったチームが経営を立て直して羽ばたいていった一方、水戸はいつまでも「失敗」の烙印を消せないまま、希望を抱けない状況が続いていた。
▼訪れたターニングポイント
「転機が訪れたのは11年」。そう話すのは08年途中から社長へ就任した沼田邦郎氏だ。09年にケーズデンキスタジアム水戸の改修が終了し、ホームタウンに待望のスタジアムが完成したことにより風向きが変わる予兆を感じながらも、それまでの赤字経営のツケは大きく、経営改善には至らず、11年の新体制記者会見の前に「経営危機」の会見を行う「最悪のスタート」(沼田社長)を切った。
しかし、そこから見せた変化は劇的だった。それには「3つのきっかけがあった」と沼田社長は振り返る。
一つ目は柱谷哲二監督の就任である。かつて日本代表のキャプテンとしてチームを引っ張り、「闘将」のニックネームで親しまれた知名度抜群の監督がやってきたことにより、県内で大きな注目を集めることができた。
同年5月の高橋靖市長の就任も、確かな追い風となった。水戸がJリーグに昇格した際、水戸市はホームタウンとして認める代わり、ホーリーホックに「資金的援助を一切認めない」という覚書の提出を求めた。その後もそうした関係が続いていたが、高橋市長は就任する時に「水戸市を盛り上げるためにホーリーホックを利用しない手はない」と考え、覚書をなかったものとしてホーリーホックをバックアップする方針を固め、同年には出資を決定するなど、サポート体制を整えた。
そして三つ目は、東日本大震災だった。大きな被害を受けた影響によって茨城県内の経済は滞り、さらにスポンサー離れも懸念された。しかし、未曾有の事態の中だからこそ、クラブが大切にしたのは「市民クラブ」としての原点。それが起死回生につながったのだ。クラブスタッフが支援物資を届けるために県内を奔走し、選手たちは志願してボランティア活動を行うなど地域のために尽力した。「地域のために」という理念を体現したことで一気に地域との距離が縮まった。
「経営改善計画を立てて、新たなスタートを切ろうとしたところで東日本大震災が起きた。これはもうダメかと思いました。どうしようと考えていたが、とにかく地域復興のために活動しようと。我々のことよりも地域に貢献することだけを考えて活動しました。それによって地域密着が加速したような感じがします。柱谷哲二が来た。そして、高橋靖市長が就任して、はじめて水戸市から出資をいただくこととなった。ポイントは2011年。いろんなことが、ドドドッと動き出した」と沼田社長は述懐する。
▼変わるための次なる一歩
絶体絶命のピンチが一気にチャンスと変わった。
震災後、スポンサーは離れるどころか、むしろ増えていき、経営は改善されて借入金を期限内に返済することができたのである。11年から3期連続して黒字を達成。経営面の立て直しにも成功している。
「クラブとしては2012年からが本当のスタートだと思っています」。沼田社長は力強い口調で言い切っている。
震災以降、ホームタウン活動は年間600回近く行っており、さらにホームゲーム前には必ず選手たちが水戸駅前でチラシを配布し、来場を呼び掛けている。柱谷監督は継続的に子どもたちを対象にしたサッカー教室を開催するなど、そうした地道な活動が地域との絆を育み、「市民クラブ」としての存在感を示すようになってきている。それは今季の観客数が証明している。順位は振るわず下位に低迷。さらにJ1クラブライセンスを取得できないためJ1昇格の可能性がない中での戦いに関わらず、昨季よりも観客数が伸びているのだ。それは地域に受け入れられるようになった何よりの証拠と言えるだろう。
今年3月、Jリーグの村井満チェアマンが水戸を視察に訪れた際、こう感想を述べた。
「水戸はピッチの内外でJリーグのモデルとしたいクラブ。すごくいいクラブだと思います」
創設から20年。地域と密着した関係を築き、健全経営を続ける現在の水戸を見て、「Jリーグに上げたのは失敗だった」と言う者はいないだろう。「ライセンス問題」など多くの問題が立ちはだかっている現実もあるが、これまで何度も危機的状況を乗り越えてきた水戸に怖いものなど何もない。20年かけて培ってきた地域との絆を大切にしながら一歩一歩、前へと進んでいく。
佐藤 拓也(さとう・たくや)
2003年に横浜FCのオフィシャルライターとして活動をスタート。水戸は04年の『エル・ゴラッソ』創刊とともに取材を開始。横浜から週に2、3回通い続ける日々を送っていたが、09年末に茨城に移住。水戸中心に取材を行う覚悟を決めた。そして12年3月に有料webサイト「デイリーホーリーホック」を立ち上げ、クラブの情報を毎日発信している。著書は『FC町田ゼルビアの美学』『被災地からのリスタート コバルトーレ女川の夢』(いずれも出版芸術社)。