J論 by タグマ!

アギーレ新監督に期待するトルシエ時代の再燃。今の日本サッカーに必要なのは”バトル”ではないか?

大島和人がアギーレ氏から感じ取るのは衝突と論争の気配だという。しかし、それは決してネガティブなニュアンスではない。

毎週週替わりのテーマを肴に複数の識者が議論を交わす『J論』。今週のテーマは「日本代表アギーレ新監督に期待すること、不安に思ってしまったこと」。8月11日に行われた就任記者会見では強い意欲を語った新指揮官だが、新生日本代表の前に問題は山積している。会見から見えてきたこと、そして不安要素とは……。二番手に登場する博識の党首・大島和人がアギーレ氏から感じ取るのは衝突と論争の気配だという。しかし、それは決してネガティブなニュアンスではない。

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▼尖っていたトルシエ時代を思う
 今の日本サッカーにもっとも足りないもの。それは”バトル”ではないだろうか――。

 サポーターの振る舞いがどう、監督の退任と選手の移籍がどう、という論争なら私も日常的に見ている。しかし日本代表チームに限ると、この4年間はつくづく静かだった。アルベルト・ザッケローニ監督が、周囲との関係を平穏に保つ名手だったからだ。彼が選手やメディアに”喧嘩を売る”ことは皆無だった。

 日本代表の”オフ・ザ・ピッチ”が一番盛り上がったのは、おそらくフィリップ・トルシエ監督時代。彼の人格とサッカーは良くも悪くも特徴的で、いま思うとマスメディアから彼は相当に嫌われていた。逆に言えば、あれだけスポーツ新聞の売り上げに貢献した指揮官もいなかったのではないだろうか。

 これは何もゴシップ報道が増えればいいという意味ではない。トルシエの4年間はサッカーの内容、指導方針についても議論が活発化していた。インターネットコミュニティが勃興していた当時、マスメディアの対立軸として”ネット側”が浮かび上がっていた時期でもあった。あの頃にアウトサイダーとしてトルシエを熱く語っていた人が、今日では何人もサッカーメディアのインサイダーとして活躍している。ストレスフルな日々だったかもしれないが、あの時期に繰り広げられた論争は間違いなく人々のサッカー観を深め、視野を広げる契機になっていた。

 無難な人は日本代表を盛り上げないし、成功もさせない。変化は摩擦を呼び、摩擦は発熱を生む。過去に日本をW杯ベスト16まで導いた監督はトルシエ、岡田武史の2氏だが、彼らは過剰と思えるほどの批判と反発にさらされていた。トルシエ氏は2000年春に解任寸前まで行ったし、岡田氏も10年5月のW杯本大会直前に”進退伺騒動”があった。もちろんサッカーの歴史を見れば、過剰より無能で批判される指揮官の方が多いのだろうけれど――。安易に妥協しない人、メディアが理解できないほどに尖がっていると人だからこそ、監督は成功を収めることができるのではないだろうか。

▼メキシコと日本は、まるで似ていない
 ハビエル・アギーレ監督の初会見は概ね平穏だった。しかし就任会見というのは必ず友好的な雰囲気で行われ、指揮官も4年間で最も紳士的に振る舞う場だ。戦後の政治史を見れば歴代総理大臣のほぼ全員が、就任直後に最高の支持率を得ている。代表監督も恐らくそれに近い。

 あの会見からアギーレ氏の”威厳”は確かに伝わってきた。相手におもねらない、悪く言うと空気を読まない返答も”らしさ”を見せていたと思う。例えば「(ドイツやブラジルなど)4、5カ国との違いは、世界レベルのタイトルを取ったことがあるかどうかだけ」「長距離移動は障害にはならない」といった答えは、質問者を突き放した言い方である。

 実際にチームが立ち上がれば、質問はより具体的、批判的なモノに変容していく。アギーレ氏はどちらかといえば強面タイプ。柔和な笑顔と美辞麗句で”感じよく相手を言いくるめる手腕”は期待できないタイプとお見受けする。しかし日本のマスメディアやサポーターは”開き直り”的な言い方を特に嫌う。摩擦は必ず起こるだろう。だが、そこからが日本代表、そして我々にとっての本番だ。

 私はアギーレ監督のサッカーに対してどんな批判が出てくるか、ワクワクしている。彼からの発信が「将来性のある選手を呼びたい」「攻守両方をこなせる選手が必要」という抽象論にとどまっている段階なら、強い批判は出てこない。しかし誰が入り、誰が落ちるという具体性を帯びた議論になれば、必ず”評価されない側”から反発が出てくる。

 サッカーのスタイルについても、必ず異論は出る。アギーレ氏は「メキシコのプレースタイルに似ている」と日本サッカーを評するが、私はまるでそうは思わない。似ているのは平均身長の低さくらいではないだろうか。

 メキシコの年代別代表は何度も目にしているが、その”図形感覚”の違いにいつも驚かされる。彼らは前後左右がずれた、ジグザグな位置取りをすることが多く、いかにも整っていない。しかしよく見ると受け渡しがスムーズで、それが身についている。私から見るとカオスな状態でも、実は彼らにとって整った形になのだろう。

「なぜこのFWはこんなキープが上手いのか」と観察してみると、要は単純にDFから届かないところにボールを置いている。身体の外にボールを置いたり、中に戻したりという単純作業だが、彼らはそういう駆け引きを小さいころから繰り返してきているのだろう。そういう”基本”として身についているベースも日本と違うと思った。

 クラブW杯でも、私はメキシコのチームを好んで見てきた。メキシコ勢には”未知との遭遇”を期待できるからだ。06年のクラブアメリカ、07年のパチューカは今もよく覚えている。その真髄は横パス、ショートパスが多い徹底したポゼションサッカー。シュートを打てるような場面でもつなぎ、消極的にも見えるスタイルだった。それが成り立つ背景にはボールを安易に失わない技巧があるし、ここという場面でスイッチを入れる緩急もある。一方で、これはせっかちな現代日本人が好まぬスタイルかもしれない。

▼ギャップと摩擦が財産になる
 日本代表がメキシコ流を短期間で修得できるなら、それは嬉しい。日本サッカーの引き出しが増えるということは、私がアギーレ氏の登用に期待する部分でもある。ただ日本と近くて遠いのが、彼らのスタイルだとも思っている。アギーレ氏は国際的なキャリアを積んだ人物なので、安易なコピーはしないだろうが、そこで何かしらの衝突は起こるだろう。

「誰がトップ下をやる?」「本田圭佑と香川真司の扱いがどうなる?」といった”俗受け”するテーマに私はあまり興味がない。私が期待半分、不安半分で待っているのは”異文化との葛藤と受容”という、スリリングなチャレンジだ。

 準備の過程では、トラブルが多くてもいい。日本とアギーレ氏が不本意な形で訣別しても、それは決して異常事態ではない。むしろ4大会連続で(オシム氏の病気による退任はあったが)監督を途中解任しなかったという”無風状態”が異常事態ではなかったか。サッカーの世界では、中途の退任が日常茶飯事だ。

 サッカーの”中身”について我々がストレスを感じられるのは、むしろ幸せなことだと思う。ストレスとリラックス、緊張と緩和の繰り返しこそがスポーツの醍醐味であり、中毒性だからだ。アギーレ氏には我々に疑問符を投げかけるような、時に苛立たせるようなアグレッシブさを期待したい。そうすれば日本サッカーを巡る議論は活発になるだろうし、メディアだって盛り上がる。

 日本代表に可能性があるか、W杯ロシア大会で勝てるかというテーマは、選考と試合を見てから語ろうと思う。しかしアギーレ氏と日本の”ギャップ”が引き起こすバトルは、きっとこの国に何かを残してくれるはずだ。