「人生史上、最も必死だったあの頃。ライターになるためのアプローチとは?」田中滋/前編【オレたちのライター道】

"ライターの数だけ、それぞれの人生がある"。ライターが魂を込めて執筆する原稿にはそれぞれの個性・生き様が反映されるとも言われている。J論では各ライター陣の半生を振り返りつつ、日頃どんな思いで取材対象者に接して、それを記事に反映しているのか。本人への直撃インタビューを試み、のちに続く後輩たちへのメッセージも聞く前後編のシリーズ企画がスタートした。第4回は『GELマガ』の田中滋氏に話を聞いた。

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▼システムエンジニアからライターへの転身

ーーまずフリーライターになる前はどんなお仕事をされていたのでしょうか?

田中
 とある生命保険会社の関連会社で、システムを保守・運営するシステムエンジニアの仕事をしていました。親会社が超巨大な一流企業なので、絶対に仕事がなくならない会社でした。 "働き蟻の法則"を聞いたことがありますか? 働きアリのうち本当に働いているのは全体の8割で、残りの2割はサボっている、という不思議な習性を説明した法則ですが、僕は2割のアリと同じだったと思います。ハッキリ言えば、椅子に座っているだけで、ときどき仕事をする程度でした。

そもそも新卒で配属されたのが別会社のシステム保守だったため、ほとんど仕事がなかったのも事実でした。面倒を見てくれた先輩がいなくなるとほとんど放っておかれるようになり、やった仕事もプログラムを数個作った程度だったと思います。"給料泥棒"と言われてもおかしくないくらいでしたが、会社が大き過ぎるとどうしてもそういう部署が出てくるんでしょうね。仕事は楽でしたけど、別会社への派遣が終わり、次のプロジェクトに回されたとき、"これはヤバイ"と気が付きました。遅過ぎるんですけどね。

その当時は、母校の大学でラクロス部のヘッドコーチをしていたので、仕事がないことは好都合でした。会社にいる時間はラクロスの練習メニューを考えメールを打つ。いま思えばひどい話ですね(苦笑)。ただ、派遣が終わり、次の派遣先が決まるまでは本当に宙ぶらりんで、本社に行っても自分の席はないので適当に空いている席で資格の勉強をしていましたが、そんな生活が1カ月も2カ月も続くはずがありません。出社してから退社するまでの時間は苦痛でしかなく、ただただ自分の人生を無駄にしているだけに感じられたので、真剣に自分の人生を考えるようになりました。その中で、ラクロス部員に自分が得たスポーツの知識を伝えることがとても楽しかったんです。そこで、スポーツライターという職業を初めて意識するようになりました。

ーーそういった仕事に就くためにどんなアプローチをしたのですか?

田中 まずは当時、『SPORTS Yeah!』という『Number』に対抗するスポーツ媒体があって、その雑誌でスポーツライターの玉木正之さんがスポーツライター塾を展開していたので、ある年の夏休みにライター塾の夏期講習を受講しました。そのスポーツライター塾の中で課題を提出するタイミングがあり、いまでもお世話になっている方が東京ヴェルディのクラブスタッフとして働いていたので、「ヴェルディの取材をさせてください」とお願いし、ヴェルディを切り口とした原稿を提出しました。

そして、最初の講座があった日、終わって帰ろうとしたら、ひげを生やしたおじさんに「この原稿はどうやって書いたんだ?」と尋ねられたんです。「誰だ、このおっさん」と思っていたのですが、あとからその方が『SPORTS Yeah!』の編集長の本郷陽一さんだったいうことが分かりました。

他の塾生がどういう課題を提出したのか分かりませんが、ある対象をちゃんと取材して提出したものがなかったのかもしれません。だから、僕が提出した課題はインパクトを残せたのか、そのあとも編集長は何かと気にかけてくれました。その冬には、夏期講座から選抜されたメンバーで特別講座があり、僕もその中の一人に選ばれました。講座の中では「良い企画があれば本誌で取り上げてやる」と言われていたので、当時、僕はbjリーグの大分ヒートデビルズの立ち上げに関わっていたことから、バスケの企画を提出して、米国で活躍する日本人選手の原稿を『SPORTS Yeah!』に掲載していただくことができました。

ーー実は僕もその講座を受けた一人なのですが(笑)、実際の現場に踏み込んで取材したものを提出できたことは大きなアドバンテージになりますね。

田中 たしかに何人も講座に通っていましたが、いま振り返れば本気でスポーツライターになろうと思っていた人はいなかったのかもしれません。その頃にはもう会社も辞めていましたし、親しい会社の同期にはスポーツライターを目指すことも伝えていました。会社では自分の能力を必要とされなかったので、ライターで失敗したら二度と立ち直れないと当時は思っていました。あれほど必死だった時期は、人生の中でもなかった気がします。

そして2005年、それまでリーグのお荷物と言われている時期もあったガンバ大阪が優勝を狙える位置に付けていたため、「その原因を取材してこい」と『SPORTS Yeah!』の編集長から依頼され、ヤマザキナビスコカップ決勝の前に、大阪に1週間滞在して、初めて長い原稿を書きました。当時のガンバの強化部長を務めていた山本浩靖さんにインタビューをさせていただき、「どうして西野朗さんに監督を依頼したのか」など、チーム作りについて取材したものを原稿にまとめました。その視点が、のちの鹿島での取材にもつながっていきました。

でも、この原稿で僕のライター人生は一度終わってしまいました。これもいまだから話せることですが、ナビスコカップ決勝前の前夜祭で当時のクラブのレジェンドの一人だった松波正信さんがその席で現役引退を発表しました。実は原稿の中で、強化部長の山本さんだけでなく、クラブの歴史をよく知っている松波さんにも、西野さんが来てからチームはどう変わったのかをインタビューさせてもらっていました。原稿が形になり、次の企画を編集長に持っていったとき、その前に話があると言われ、次のように切り出されました。

「この原稿には一箇所だけ致命的なミスがある。それが分かるか?」。でも、僕はなんのことやらまったく分からず、ヘラヘラしながら「すいません、分かりません」と答えてしまったんです。すると本郷さんは「お前は松波さんと1対1で話す機会があったのに、現役を引退する考えがあることを引き出せなかった。そのことがお前の中に悔しさとして残っていないのならば、お前はライターとして終わりや。帰れ!」と一喝され、これを最後に『SPORTS Yeah!』での仕事はなくなりました。あとで聞いた話によると、本郷さんは僕を編集部員にする意向を持っていたらしく、そこまで期待していただいていただけに、失望も大きかったのかもしれません。本郷さんは、厳しい方でしたがいまでも勝手に師匠の一人だと思っています。

▼J'sゴール、エルゴラの鹿島担当になるまで

ーーちなみに田中さんはラクロス系の書籍を2冊出していらっしゃいますが、どんなプロセスで出版することになったのですか?

田中
 あまり大それたプロセスではないのですが、まだライターの駆け出しの頃はいろいろなところに顔を出していました。いまにして思えば、すごいバイタリティーがあるなと思いますし、そんなことができていたのかと思うのですが(苦笑)、それほどいろいろなことに本気だったのだと思います。ある日、WOWOWのサイトでリーガエスパニョーラなどスペインのことを書かれていた守本和宏さんというライターさんがいらっしゃって、僕はそのコラムを面白いなと思いながら読んでいたのですが、その方となぜかmixiでつながった縁で帰国パーティーに参加することになりました。そこで書籍の編集担当の方と出会ったことを一つのきっかけとして、ラクロスの本を出すことになりました。

ーーまた先ほどお話に出たバスケットボールチームの大分ヒートデビルズとの関わりは、何がスタートだったのですか?

田中
 クラブのライター募集が一つのきっかけとなりました。Web会社を運営されていた川村隆一さんという方がクラブの共同オーナーを務めていて、その方がbjリーグに参戦するにあたってブースター(サポーター)を盛り上げてからbjリーグ開幕を迎えたほうが良いよねと、Webサイトを立ち上げることになったんです。そのWebサイトを運営するにあたって、ライターが必要になるからと募集が出ていて、それをたまたま僕の後輩が見て教えてくれたので、応募をしたところ即決で携わることになりました。

結局、その方は共同オーナーの方と方向性が合わずにクラブを離れたので、僕もその方と一緒にヒートデビルズとの関わりは終わりました。先ほどの『SPORTS Yeah!』の本郷編集長と、川村さんが、いまでも僕にとっての師匠です。

ーー『SPORTS Yeah!』との接点がなくなったあと、サッカーライターとしての業務はどんな形で携わっていたのですか?

田中 川村さんの会社で働きつつ、06年にJ'sゴールの鹿島担当を少しずつヘルプでやっていました。そして、08年の春先からJ'sゴールの鹿島担当のご依頼をいただき、その夏にエル・ゴラッソからも打診をいただいて、両媒体で鹿島担当を務めることになりました。5年くらいかけて、ようやく08年にサッカーライターとして一人立ちできたのかなと思います。

(後編「鹿島担当足掛け10年。鹿島が"常勝軍団"で在り続ける理由とは?」)


田中 滋(たなか・しげる)

1975年東京生まれ。上智大文学部哲学科卒。2008年よりJリーグ公認ファンサイト『J'sGOAL』およびサッカー専門新聞『エル・ゴラッソ』の鹿島アントラーズ担当記者を務める。著書に『鹿島の流儀』(出版芸術社)など。WEBマガジン「GELマガ」も発行している


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