J論 by タグマ!

これを「世界との差」などと安易に総括しては進歩しない。

3戦を終えて、1分2敗。勝利の美酒に一度も酔うことのないまま、日本代表はブラジルの地を去ることとなった。この結末を受けて、何を考えるべきか。週替わりに複数の論者が一つのテーマを語り合う『J論』では、「敗退。コロンビア戦を受けて、日本サッカーが考えるべきこと」と題して、この問いについて議論したい。まずは一番手として大島和人が、TV中継でも連呼された「世界との差」という言葉への違和感について語ってみた。

▼答えと不足と
 日本サッカーの”答え”が出てしまった。

 日本代表は1-4でコロンビアに敗れた。1分2敗のC組4位という戦績で決勝トーナメント進出を逃し、W杯ブラジル大会を終えた。

 ザックジャパンが、コロンビア戦で何も見せられなかったとは思わない。岡崎慎司、大久保嘉人といった”ガツガツ系”を押し立て、前に人数をかけて縦に速い攻撃を仕掛けた。香川真司もバイタルエリアのスペースを上手く使い、持ち味を見せていた。ボール保持率、プレーエリアで見れば、日本のゲームだったとすら言える。

 しかしコロンビアは強か(したたか)だった。日本がペナルティーエリア内に持ち込んでも、危険なコースは消している。もちろん相手DFの影から一瞬の動き出しで顔を出した岡崎のヘディングは見事だったし、そもそも相手のマークが付いていようとFWは決めなければいけない。とはいえ、コロンビアの最終局面での強さは抜群だった。

 日本はシュート24本、枠内シュート8本で1点にとどまった。コロンビアの守備が整っている状態からシュート打てば、どうしても決定率は落ちる。また日本は攻撃的な試合運びをした反面、守備のリスクを負っていた。加えて奪われた後の切り替え、帰陣も遅かった。4失点はPKも含めてすべてカウンター絡みで、いずれも守備陣が手薄な状態で対応していた。

 コロンビアはシュート13本、枠内シュート4本で4点を奪っている。日本がバランスを崩し、重心を前に掛け過ぎたことによるものだ。もちろん彼らのラストパス、フィニッシュの精度が素晴らしかったということもあるのだが……。

 ザックジャパンがスキだらけの戦いをしてしまったことは一面の事実だ。しかし勝ち点3が必要なら、撃ち合いに持ち込んだほうが望む結果を得る可能性は高まる。この一戦に臨む姿勢は好ましいものだったと思う。

 とはいえ、この一戦だけでなくブラジル大会全体を総括するなら、決してポジティブな分析にはならない。日本は、何かが足りなかった。

▼「世界との差」という違和感
 テレビ朝日の中継を見ていたら「世界との差」という言葉が出てきた。

 私はこの単語を聞くたびに4年前の夏を思い出す。仙台カップという国際ユース大会に、フランスのU-19代表が来日していた。日本の記者から「どうすれば日本と世界の差は埋まるのか?」と問われたフランスの監督の答えは意外なものだった。「日本は先日のW杯でベスト16に残りました。われわれはご存じのような結果(練習ボイコット騒動などもあり1分2敗)です。我々が日本から学ぶ立場です」と真顔で口にしたのである。

 行き過ぎた謙遜かもしれないし、人によっては質問をはぐらかした嫌味な回答に感じたかもしれない。日本はもちろんW杯優勝経験がないし、リベリのような世界的スーパースターもいない。しかしその国のフットボールカルチャー、人材の豊富さは大舞台における勝利の必要条件であって、十分条件ではないのだ。それは今大会におけるスペイン、イングランド、イタリアのグループリーグ敗退を見ればよく分かる。逆に言えば、一発勝負であったらコスタリカがイタリアやイングランドの上に立てる。そういう大会だ。

 単純な”足し算”で言ったら、ブラジル大会の日本代表は南アフリカ大会より強かっただろう。しかしもちろん、成績は南アフリカ大会が上だった。

“個人能力の差”はあったのかもしれないが、そんなことはこの際どうでもいい。同じ舞台で戦っている以上、相手がコロンビアだろうが、ブラジルだろうが、日本は必要な結果を奪い取らなければならない。相手の良さを消しつつ、自分たちの強みを出す。もしくは自分たちの強みを出すことで、相手の良さを消す。1対1、ユニット対ユニット、チーム対チームで、そういう駆け引きを5400秒間で何千回、何万回と積み重ねていくのがサッカーだ。サッカーは個としての差を埋める手段が、ピッチ上にいくつも転がっているスポーツでもある。

 日本サッカーのマーケット、カルチャーをさらに充実させなければならないのは間違いない。しかしその問題と、W杯の勝敗を同じ延長戦上に見る人が多すぎるのではないかとも思う。まず「日本サッカー論」と「W杯のプレー」を分けて語ってみたらどうだろう――。これが私の提案である。

▼見えなかった勝つための+α
 日本代表の戦いに話を戻す。

 今大会を通して「自分たちのサッカー」「日本のサッカー」という言葉が乱れ飛んだ。しかしそれが”攻撃的”とか”パスをつなぐ”というような次元で受け止められていたら、そんなイメージは害にしかならない。

 相手が無理にラインを上げてきたら裏を突き、相手が引いたら手前でパスをつなぐ。中を閉じたら外に振り、外に詰めてきたら中に入れる。そうやって融通無碍(むげ)に対応するのがサッカーという競技だ。

 一方で何かしらの怖さや強みがなければ、試合は単なる我慢大会になる。相手に脅威を与え、バランスを崩すことで、自分たちのプレーの選択肢を増やすこともできる。つまり柔軟に戦うためにこそ、突出したポイントが必要になってくる。これはサッカーに限らない、ボールゲームの鉄則だ。

“世界の差”という曖昧な要素は語りようがない。しかし6月24日のクイアバで、日本とコロンビアを比べれば、そこには明確な差があった。コロンビアは呼び込んで守る堅さ、少人数で点を取り切る精度がピカイチだった。単なる守備的な戦いということでなく、日本の選択肢を奪って、無理をさせる。受け身でなく、意図して日本のスキを創り出す――。そういうフットボールの本質が、彼らには備わっていた。

 ザックジャパンの人を掛けてゴールを取りに行くスタイルが、悪かったとは思わない。しかしあのスタイルでコロンビアに勝つなら、プラスαが必要だった。たとえば奪われた後のファーストディフェンスでもっと押し戻さなければ、”その次”が苦しい。そこで相手をハメ切れずに仕方なく引いたのがコートジボワール戦で、前に残ってカウンターを受けたのがコロンビア戦だった。

「日本サッカーには何が足りなかったか?」。この問題設定では答えをまとめようがない。答えを出すにしても「采配」「個人能力」「コンディション」「メンタル」という抽象的な話にとどまってしまうだろう。すっきりと口当たりのいい議論になるもしれないが、それは日本サッカーへの栄養にはなるまい。

 しかし「コロンビア戦で何が足りなかったか?」「失点の場面は何がまずかったのか?」そういう切り口ならば、リアルな答えを出せるはずだ。具体的な問いかけを一つ一つ積み重ねていくことが、遠回りなようでいて、実はこの国のフットボールカルチャーを前進させる最短距離である。私はそう確信している。
 ディテールの分析はいちいち手間がかかるし、失敗と直面する苦い作業かもしれない。しかしそれこそが、代表と私たちを癒す”薬”になるはずだ。