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一番伸びた38歳。甲府FW盛田剛平が示した価値と、日本サッカーの眠れる可能性

今年のJリーグアウォーズで一つ賞を追加できるなら、ある選手に贈りたい。今季のJ1リーグを観ながらそんなことを思った人も少なくなかったのではないだろうか。

今年のJリーグアウォーズで一つ賞を追加できるなら、ある選手に贈りたい。今季のJ1リーグを観ながらそんなことを思った人も少なくなかったのではないだろうか。賞の名前は「カムバック賞」でも「ベストベテラン賞」でも何でもいい。シーズン前に一度は契約非更新を告げられながらチームに残った38歳。甲府の盛田剛平が示した価値は、ここであらためて語っておく必要があるのではないだろうか。一つのテーマを掘り下げる一意専心コラム。今回は、この歴戦の勇士について語ってみたい。

▼城福監督の確信を込めた一言
 成長は若者の専売特許ではない。それを証明したのが、2014年のヴァンフォーレ甲府だった。

「彼らが一番伸びました」

 ホーム最終戦後のセレモニーで、城福監督がその成長を称えたのは盛田剛平、石原克哉、山本英臣の3選手だった。盛田が38歳、石原が36歳、山本は34歳――。選手が平均25歳強で引退するJリーグの中では、そもそも試合に出ていることすら珍しい世代である。しかし期待を上回る活躍で、J1残留の原動力となったのが彼らだった。

 その中でも最大のサプライズが盛田の”成長”だった。

 1999年だから、まだ20世紀。ちょうど15年前に、盛田は駒澤大から鳴り物入りで浦和レッズ入りを果たした。190cm近い巨躯と”利き足は頭”と冗談交じりに評されるほどに強烈なヘディングが、注目を浴びる理由だった。しかも左利きで、ボール扱いだって悪くない。そんな彼は、2002年W杯のエース候補に挙げられるストライカーだった。しかしルーキーイヤーの彼は原博実監督(当時)の抜擢に応えられず、19試合に出場し、何と無得点。チームもJ2降格の憂き目に見舞われてしまう。浦和を2年で去ったあとはC大阪、川崎、大宮、広島とクラブを転々としていた。

 05年のオフ、広島に在籍していた彼は、クラブの勧めもあってDFへの転向を選ぶ。そこからは広島、そして甲府と、CBとしてそれなりに充実した”第二のキャリア”を過ごしていた。

▼まさかの”第三のキャリア”
 とはいえ13年の出場はわずかに10試合。山本と青山直晃、佐々木翔の3バックが万全で、盛田の出番は大きく減っていた。12月上旬には彼の契約非更新(いわゆる、クビである)も発表されたが、特に驚きはなかった。ユーモアと含羞があり、誰からも好かれるナイスガイとの別れを惜しみつつも、次のクラブが無事に見つかればいいね――。誰もがきっとそんな思いで彼を見送っていたと思う。

 J2クラブからのオファーもあり、次の進路も決まりかけていた12月末。盛田は一転、甲府と再契約を結ぶことになる。獲得に動いていた他選手との契約が不調に終わり、盛田に再び声を掛けたのだ。盛田もこれに応じ、14年も甲府でプレーすることになった。

 そんな盛田が2月のキャンプではセンターフォワードで試され、15日に行われたG大阪とのトレーニングマッチでは得点も挙げた。私も気にはなっていたし、新聞などの記事にもなっていた。もっともこの時点で盛田のFW起用は”小ネタ”止まりである。

 甲府は14年の開幕前に矢島卓郎の獲得を狙って動き、横浜FMとの争奪戦に敗れたという経緯がある。新外国人選手のクリスティアーノはセカンドトップ系で、”ポストプレーヤー”が不在だった。どうしても得点の欲しい残り10分、15分で、前線のターゲットになる。盛田ならそういう仕事はできるだろうし、悪くないオプションかもしれない――。とはいえ、彼がFWとして”特殊な状況での選択肢”以上の存在になるとは、まったく想像していなかった。

 城福監督も1月の個別面談で「(FWをやる可能性が)ゼロじゃない。そういう心づもりをしておいてくれ」と盛田に伝えていたのだという。しかしそんな指揮官もやはり「先発の一人というイメージではなかった」と当時を振り返る。

 FWとしての”出番”は意外に早く来た。開幕・鹿島戦で甲府は後半早々に3点のリードを許すと、74分に右ウイングバックの福田健介に変わって盛田が起用される。さらに週明けの練習でジウシーニョが負傷して前線が手薄になると、第2節・FC東京戦では盛田が先発に抜擢された。盛田は確かにヘディングが強いし、足元も悪くないが、先発となれば話は違う。「体力は持つの?」というのが、率直な疑問だった。しかし盛田はこの試合で90分ピッチに立ち、ゴールこそなかったが十分な働きをした。チームも1-1で勝ち点「1」をもぎ取り、誰もが「行ける!」という手応えを得た好試合だった。

 盛田は第3節・新潟戦で先制点を挙げると、そのまま前線に定着。腰痛などで離脱する時期はあったが、34試合中29試合に出場した。5得点は決して多くないが、チーム最多タイのゴール数だ。それは、J2時代も含めて彼のキャリアハイとなる記録だった。

▼ベテランという鉱脈はきっとある
 城福監督は「お前に点なんて期待してない」と盛田へ伝えていたのだという。それはポイントを絞り、15年前と違う要求をしなければ、彼を再生できないという熟慮からだ。結果として盛田への要求はシンプルなものとなった。一つは彼が起点になって周りの選手を生かすということ。もう一つはサイドからのクロスボールに対して、しっかり競りに行くということである。

 盛田は”人を押しのけてゴールに突き進む”というタイプではない。相手DFラインの裏を突く、自らドリブルでエリア内に持ち込むというようなプレーの鋭さもない。一方で彼にはボールをしっかり収めつつ、いいタイミングで味方を生かす”スキルとクレバーさ”がある。加えてハイボールに合わせる高さ、感覚は健在だった。彼は自分のプレーを上手く整理し、強みとなる部分に絞って表現した。

 盛田は城福監督のベテランに対する姿勢をこう振り返る。「試合に出ている、出てないじゃなくて、人として、経験を積んだサッカー選手として扱ってくれる。ベテランだから使わないとか、若手を使うとかじゃなくて、(フェアに)評価をしてくれる」(盛田)。

 メディアも指導者も、とかく”若さ”に期待を掛けがちだ。確かに若手はそれだけ残された”猶予期間”が長い。しかしベテランと言われる選手が可能性をすべて出し尽くしているのか?成長の余地はもう残っていないのか?という問いに対して、私は”NO”を言いたい。その証明が盛田を筆頭とする、甲府のベテラン勢だ。

 日本サッカーが右肩上がりの成長曲線を描き続けていた時代は終わったが、”高度成長”を引っ張ってきた世代の人材はまだ元気だ。彼らは単なる老いぼれでなく、相応の指導を受け、Jの舞台でいい経験を積んできた”ニュージェネレーションのベテラン”だ。ちょっと汚れを落とせば、まだまだピカピカに光る玉なのだ。

 年齢を理由に出番を奪われ、成長の機会を逃した選手は、きっと今まで数えきれないほどいたのだろう。しかしJリーグが成人した今、ベテランという”鉱脈”を掘り直す時期が来たのではないだろうか。

大島和人

出生は1976年。出身地は神奈川、三重、和歌山、埼玉と諸説あり。ヴァンフォーレ甲府、FC町田ゼルビアを取材しつつ、最大の好物は育成年代。未知の才能を求めてサッカーはもちろん野球、ラグビー、バスケにも毒牙を伸ばしている。著書は未だにないが、そのうち出すはず。