「自ら道を切り拓いてきたバイタリティーの原動力とは?」宇都宮徹壱/前編【オレたちのライター道】

"ライターの数だけ、それぞれの人生がある"。ライターが魂を込めて執筆する原稿にはそれぞれの個性・生き様が反映されるとも言われている。J論では各ライター陣の半生を振り返りつつ、日頃どんな思いで取材対象者に接して、それを記事に反映しているのか。本人への直撃インタビューを試み、のちに続く後輩たちへのメッセージも聞く前後編のシリーズ企画。第10回は『宇都宮徹壱ウェブマガジン』の宇都宮徹壱氏に話を聞いた。

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▼大学時代からの夢を捨て切れず......

ーーまずは宇都宮さんのキャリアを簡単に振り返っていただけますか。

宇都宮 ちょうど30歳を迎えた頃に人生の行き詰まりを感じた時期がありまして、21年前の1997年にそれまで勤めていたテレビの制作会社を辞めました。その制作会社は、ゴルフやサッカーを中心した番組を制作していて、当時はダイヤモンドサッカーの制作に携わっていました。でもなかなか先が見えにくい生活を続ける中で、「写真家になりたい」という大学時代からの夢を捨て切れずにいたんです。それで制作会社を退職して、何のあてもないままカメラ一式とありったけのフィルムをリュックに詰め込んで、バルカン半島に旅立つことになりました。

ーーなぜバルカン半島を訪ねたのでしょうか?

宇都宮 昔から東欧という地域に惹かれていました。ちょうどリーガ・エスパニョーラでストイチコフとかハジとかミヤトビッチなどが活躍している時代でした。こうした天才たちを生み出す東欧、とりわけ旧ユーゴスラビアは、どんな土地なのだろうか。もっとも当時はインターネットも普及しておらず、情報も乏しかった。これはもう、現地で取材をするしかないだろうということで、内戦が終結して間もない旧ユーゴへ撮影の取材に出かけました。

ーー実際にバルカン半島を訪れていかがでしたか?

宇都宮 現地の人たちにとって、日本人そのものが珍しく、さらに自分たちの土地のフットボールを取材しに来たとなれば、二重に歓迎されました。そこでの経験から、未知の文化を知る上でサッカーが重要なキーワードになるという新たな発見がありました。当時は、ただサッカーの試合を撮影するのではなく、むしろサッカーを通してその国や国民性や民族性、さらには歴史的背景を知ることが目的でした。その土地に根ざしたサッカースタイルや、週末に試合が行われるスタジアムの雰囲気など、やはりその土地らしさが凝縮されているんですね。こうして98年の5月に『幻のサッカー王国』が上梓されました。

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▼仕事の幅が広がるきっかけとなったコミュニティー

ーーその『幻のサッカー王国』を書いたことをきっかけに、サッカー関係の仕事が増えていったのでしょうか?

宇都宮 そう甘くはありませんでしたね。業界のコネクションもなく、ただサッカーの本を出したという実績だけでは、やっぱり原稿の依頼は来ないですよ。そんな中、2002年の日韓W杯に向けて、次の本の出版計画を練っていました。4年後、海外から来日するサポーターは、どういう人たちなのか。それを知ってもらうために、フランス大会に出場する32カ国のサポーターのポートレイトを撮影して、それを一冊の本のまとめようと。ある種の使命感に燃えていた私は、98年のW杯期間中に取材パスもなし、観戦チケットも持たない状態でフランスへ旅立ちました。

結局、現地で観戦できたのは、日本×ジャマイカ、クロアチア×ルーマニアの2試合だけ。むしろ試合そっちのけで、32カ国のサポーターのポートレイト撮影に没頭していました。当時、サポーターは専門誌でも扱えるようなテーマではなかったのですが、幸いなことに99年に『サポーター新世紀』という本を上梓することができました。

ーー例えば定期的な連載などは、どんな媒体で始められたのですか?

宇都宮 初めて媒体で定期的な連載を持たせていただいたのが、『サッカークリック』というWebサイトでした。大住良之さん、佐山一郎さん、慎武宏さんなどが連載している中で、私は写真とエッセイを組み合わせた『モノクロームの冒険』を週一回のペースで連載していました。

そのきっかけは、『サロン2002』という、サッカーの勉強会に参加していたことでした。メンバーはエリート企業のビジネスマンから大学教授、メディアの人などなど......。サッカーという切り口で年齢や職業、性別を超えて、人はつながれるんだという新鮮な驚きがありました。サロン2002での出会いはその後の人生において、大きなターニングポイントとなったのですが、そのメンバーの中に『サッカークリック』に携わっている人がいらっしゃって、「連載をやってみません?」と誘われたんです。

ーーサッカーを語るコミュニティーがサッカーの仕事を広げるきっかけになったのですね。

宇都宮 00年にスポーツナビの立ち上げに携わった広瀬一郎さんとも、このサロン2002で出会いました。広瀬さんとの出会いは私の人生の中でも大きな出来事で、広瀬さんがいなければ今の自分はいません。新聞や雑誌など紙媒体になかなか書けない時代に、ちょうどインターネットメディアの勃興期に立ち会えたことで、紙媒体に実績のない私が書く機会を得ることができました。

そして02年には、「ディナモ」とつくクラブチームを取材・撮影したものをまとめた『ディナモ・フットボール』という3冊目の本を出版することができました。その年の日韓大会では、スポナビがネットメディアとして取材パスを確保できたため、自国開催のW杯を取材することもできました。いろいろな偶然が重なった結果、今の自分の仕事につながっているんですね。

(後編「番記者系コンテンツと一線を画すWMのオリジナリティーとは?」)


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