「事故、震災、人との出会い。人生の転換期でその道を選択した理由」佐藤拓也【オレたちのライター道】

"ライターの数だけ、それぞれの人生がある"。ライターが魂を込めて執筆する原稿にはそれぞれの個性・生き様が反映されるとも言われている。J論では各ライター陣の半生を振り返りつつ、日頃どんな思いで取材対象者に接して、それを記事に反映しているのか。本人への直撃インタビューを試み、のちに続く後輩たちへのメッセージも聞く前後編のシリーズ企画がスタートした。第3回は『デイリーホーリーホック』の佐藤拓也氏に話を聞いた。

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▼大事故が転機に

ーー佐藤拓也さんはライターになる以前は、どんなお仕事をされていたのですか?

佐藤 大学を卒業後、文具メーカーの一般企業に10カ月ほど勤務したのちにその会社を退社して、日本ジャーナリスト専門学校に2年間通いました。その専門学校を卒業したあとにフリーライターを始めました。

ーー新卒で勤務した会社でいわゆる社会人のイ・ロ・ハを学んだのでしょうか?

佐藤 そんなに長く勤務したわけではないので、学ぶ前に辞めてしまったというか、学んだとは言い切れないと思います。

ーー文具メーカーに勤務しているときのサッカーとの関わりは?

佐藤 幼稚園のころからサッカーを始めて、サッカーを見ることが中心になったタイミングは高校3年生ぐらいからだったと記憶しています。横浜フリューゲルスのサポーターをやっていたので、ホームゲームは毎試合通っていました。趣味がサッカー観戦だったので、サラリーマンになって週末はサッカーを見る生活をすれば良いかなと思って就職しました。

でも、あまり職業の選択に関して、深く考えずに決めてしまい、その勤務先が結構仕事の内容がハードでした。1年目から一人での出張も多く、辞める前には一人で1週間新潟や長野の出張に行くことになって、毎日深夜まで仕事をしていました。それなのに、翌朝の朝一には出かけて次の現場へ行く。そういうことを日常的に繰り返していたところ、ある日出張から帰宅している途中に関越道で居眠り運転をしてしまい、ガードレールに突っ込み、路肩にぶつかるという大事故を起こしてしまいました。

ところが、奇跡的に一命をとりとめた上に無傷でした。そのときにフト考えたら「コレ、死んだようなものだな」と思いました。そこであらためてもう一度人生を考え直したほうが良いなと考え直したところ、一度死んだような身、怖いものはないから、好きなものに携わって生きようという考えに行き着いたんです。そう考えたときにやはり「サッカーに携わりたい」と思いました。

でも、そこからサッカー選手になることは無理。専門系の現場が無理ならば、「ではサッカーに携われることは何か」と考えたときに雑誌『Number』を読んだら、日本ジャーナリスト専門学校(以下、ジャナ専)の広告が目に付いて、「コレだ!」とメディアの道に行くことを決めました。

ーー佐藤さんはサッカーライターのいわゆる走りが"横浜FCのオフィシャルライターであるフリエライター"だと思うのですが、ジャナ専に通いながらフリエライターをやっていたのですか?

佐藤 ジャナ専に通ったあとですね。通っている間の2年間は、とにかくアルバイトと専門学校に明け暮れていました。フリエライターになったのも横浜フリューゲルス好きが高じてのことですし、実はマッチデープログラムが作りたくて、試合を見に行ったあとに自分でDTPでマッチデープログラムのサンプルを作って、クラブの方に提案をしていたんです。

それこそ、Jリーグクラブのマッチデープログラムの代表例でもある浦和レッズのマッチデープログラムも研究しました。そうして何度か提案していく過程でクラブ側から「フリエライターをやってくれないか」という打診がありました。ただボランティアでしたから、サッカーライターとしての第一歩と言えるかは分かりませんが......。

ーーちなみにフリエライターの仕事内容は?

佐藤 まずはマッチデープログラムの制作全般、記事執筆、あとはWebサイトに更新する試合後のコメントのアップ、そしてクラブのオフィシャル刊行物の記事制作に携わってきました。1年で3人ほど、フリエライターの同期がいました。

ーーフリエライターを一つのきっかけとして、いわゆるビジネスとしてのサッカーライターのスタートは何だったのですか?

佐藤 フリエライター2年目の10月に、すでにフリエライターを辞められていた僕の一つ上の先輩がサッカー専門新聞『エル・ゴラッソ』の発行に携わることになり、ある日、その方に打ち合わせに呼ばれました。その席で「こういうものを作るんだけど、佐藤くんの力を貸してくれないか」という打診を受けました。僕にとっては願ったり叶ったりのことでした。エルゴラのやりたいことと、僕の原稿として発表したいものがかなりリンクしていたので、「ぜひやらせてください!」とオファーを受けました。エルゴラのライターがフリーライターとしての第一歩ですね。

▼バルサ<水戸ホーリーホック

ーー2004年当時は、Jリーグ全クラブに番記者を配置するいわゆる"番記者制度"はまだ始まっていませんよね。取材体制はどういった形だったのでしょうか?

佐藤 僕の場合は横浜FCだけではなく、いろいろなチームの取材に出かけて原稿を書いていました。ただメインは意外にも横浜F・マリノス。並行して、横浜FCや水戸ホーリーホックも取材していましたが、次第に水戸にすごく興味が集中するようになりました。

そしてある日、夏に親善試合でスペインのバルセロナが日本に来ることになりました。ロナウジーニョが来日して、横浜国際総合競技場でマリノス対バルサという、すごく注目度の高い試合が開催されることになったのですが、ちょうど同日に笠松で水戸と横浜FCのJ2リーグが行われる日程と被ってしまいました。

どちらに取材に行くべきか。僕の選択はバルサの試合ではなく、J2の水戸vs横浜FCでした。結局、金曜開催の試合だったので、観客はたしか1,200人程度。「アホじゃないか?」と言われましたが、個人的な考えとして、出来上がったものよりも、これから積み上げていくチームを見ていきたいという思いがありました。このときです。自分の進むべき道が決まったのは。

もちろんマリノスを取材していても、クラブが進もうとしている方向性などは素晴らしかったですし、僕はそれを否定するつもりはないのですが、個人的にはあまり面白さを感じなかったんです。やはりこれから作り上げていくクラブの過程を取材したいという思いがこのとき明確になったんだと思います。ほかの雑誌の編集の方も僕の選択に対して、「面白い奴だな」と思っていただけたようで仕事を振ってくださる方が増えました。

ーー横浜FCと水戸を担当する時期もあったと思いますが、ちなみに水戸1本に絞ったタイミングはいつのことですか?

佐藤 もともと横浜に住みながら水戸への取材をしていたのですが、10年に茨城在住の女性と結婚して、茨城に住むことになったんです。それ以降、茨城に住みながら、横浜FCの取材やFC町田ゼルビアの取材もしていました。東京に軸足を置きながら、茨城に住んでいるという生活が続いた中で、茨城に両足を落ち着かせるきっかけとなる出来事がありました。それは2011年3月の東日本大震災です。

あの日、震災が起きた瞬間は、横浜FCの取材中だったのですが、実は臨月の妻を茨城に残したままでした。お腹の大きい妻を茨城に残し、僕は結局丸2日間、茨城に帰ることはできませんでした。震災の日は横浜の実家に一泊して、そのあと帰ろうにも取手までしか行くことができずに、取手でさらに一泊して取手からタクシーでようやく茨城の家に戻れました。

僕は丸2日間、電気も水道も機能しないところに臨月の妻を残してしまったことに自分自身がすごくショックを受けていました。「頻繁に家族の下を離れることは良くないな。それならばもう妻の家族も近い茨城に移り住もうと、家族の近くで仕事をしよう」と決心しました。決して横浜FCが嫌になったということではなく、そこで自分の生きる道が決まりました。

ーーなかなか言葉では表せない経験をされているんですね。

佐藤 同じ時期にもう一つ大きな出来事がありました。11年の4月に岩手、宮城、福島と被災地を回って取材した折に、コバルトーレ女川というチームを取材する機会に恵まれました。そのクラブのGMである石巻日日新聞社社長の近江弘一さんと知り合い、近江さんにいろいろな話をうかがう中で地域のために活動するという"ローカリスト"の生き方を教わりました。その生き様に僕はすごく感銘を受けたんです。震災で感じたこと、それは地域を大切にするということでした。ちょうど僕も家族のそばで仕事をしたいと思い始めている中で、"ローカリスト"という生き方があることを知りました。

「もう茨城のために生きよう」。そう覚悟を決めました。茨城県外の仕事は11年いっぱいですべてお断りして、12年から茨城で再スタートを切ろう、茨城に両足をつけて頑張ろうと、そのタイミングで始めたのが『デイリーホーリーホック』でした。

(後編「茨城のために生きる。"ローカリスト"として生きることで気付けたこと」佐藤拓也/後編

【プロフィール】
佐藤 拓也(さとう・たくや)
2003年に横浜FCのオフィシャルライターとして活動をスタート。水戸は04年の『エル・ゴラッソ』創刊とともに取材を開始。横浜から週に2、3回通い続ける日々を送っていたが、09年末に茨城に移住。水戸中心に取材を行う覚悟を決めた。そして12年3月に有料webサイト「デイリーホーリーホック」を立ち上げ、クラブの情報を毎日発信している。著書は『FC町田ゼルビアの美学』『被災地からのリスタート コバルトーレ女川の夢』(いずれも出版芸術社)。

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