所詮は初戦。『メッシと滅私』の著者が訴える「この数日の過ごし方」
今回は話題作『メッシと滅私』の著者である七色の蹴球文化論者・吉崎エイジーニョがギリシャ戦を取り巻く「過去、現在、未来」を解き明かす。
逆転負けが及ぼす心理面への影響は大きい。期待値が高ければ、なおさらだ。ましてや、やりたいサッカーが何一つできずに敗れたとあっては、空中分解の危険すらある。日本代表のW杯は、第1戦を終えて早くもそんな危機にある。毎週、週替わりのテーマで議論を交わす『J論』では、「初戦敗北。ギリシャ戦に向けた日本の採るべき術策は何か?」と題して、第2戦に向けた日本代表の選択肢を探っていく。今回は話題作『メッシと滅私』の著者である七色の蹴球文化論者・吉崎エイジーニョがギリシャ戦を取り巻く「過去、現在、未来」を解き明かす。
▼過去、現在、未来の三視点
あれだこれだとごちゃごちゃと言う必要はございません。過去、現在、未来の三つに分けて頭を整理すりゃいいだけです。それは選手にしても、観る側にしても同じことでしょう。そのうえでごちゃごちゃと言います。
システム・戦術がうんだらくんだらという話はしません。それは他の書き手がやることでしょうから。
▼過去:コートジボワール戦に負けた
これはどういうことを意味するのか。この点をまずは手短に整理すべきです。
(1)やりたいこと(攻めて勝つ)ができずに負けた
(2)やりたいことができてりゃ勝てたのか
(3)やりたいことができていれば負けても納得できたのか
(4)そもそもやりたいことが実現不可能なことだったのか
キャプテンの長谷部誠は試合後にこんな発言をしている。
「今日は前半も後半も自分たちがやろうとしているサッカーが表現できなかった。それが一番です。相手も良かったわけではないし、ただ自分たちができなかったです」
はっきりと、(1)だった。ここは残り2試合を戦うためにも重要なポイントになる。もう一つ、試合後の選手の言葉で強調したいのが長友佑都のもの。「自分たちのサッカー(攻めること)ができなかった」とした上で、その理由をこう挙げた。
「相手にボールを回されて、全体的に体力を消耗させられた。相手は軽くボールを回しているだけで、僕たちも前からハメていこうとしていたんですけど、奪いどころがなかったのが正直なところ」
考えてみれば当たり前の話のこと。ボールがなけりゃ攻められない。自分たちがこうしたいと思っても、そこには相手がいるのだから……。文句なら3試合が終わった後に言いましょう。ならばこの試合に負けた以上は、W杯という世の注目が集まる時に、このサッカーの本質的な点を伝える機会だと考えるべき。
守りが悪かったから攻められなかった。攻めが悪かったから守りも悪かった。両者は連動しているものだと。
『J論』の読者に対しては、完全に「釈迦に説法」だが、言いたいのは、「周りの”にわかファン”にちょっとでもいいからこの点を伝えよう!」ということ。敗戦のリアリティとともに、「ほら見ただろう。野球みたいに攻撃と守備がはっきりと分かれているわけではないんだ」と(もちろん野球もピッチャーが三者凡退で抑えると次のイニングの攻撃がよくなる、というのはあるでしょうが)。
これこそがサッカーの本質で、楽しさでもある。遠藤保仁も「攻めようとした際に、ボールの取られた位置が悪すぎて失点した」と言ってるよ、とね。
「ボールの失い方があまりにもよくなかった。中盤の位置でボールを奪われると、鋭いカウンターが待っているということは、次のギリシャ戦も一緒」と言いつつ、「大会が終わったらJリーグを生で観て、それを体感しないか?」と。
コートジボワール戦の負けとは、そういう機会と捉えるしかありません。
▼現在:負けの”癒し”はほどほどに
じゃあここからどう次戦につなげていけばいいのだろうか。5月16日に発売となったサッカー比較文化論「メッシと滅私」(集英社)の著者として言わせていただきたい。
この書籍の中で筆者は「日本代表の多くが海外組である以上、チームの”欧州化”の現象が起きているのではないか」という仮説を立てた。先のコートジボワール戦でもふとした瞬間に「あっ」と思うことがあった。 54分に長谷部誠が交代でピッチを出る時のことだ。 去り際に右サイドの内田篤人が長谷部の頭をポーンと叩いた。お疲れ様です、と軽く肩に触れる程度ではなく、ポーンと頭をたたいた。長谷部30歳、内田26歳。完全に「年齢による上下関係が厳格ではない」という欧州化した日本人選手の姿だった。これはキリスト教文化の影響で……と語り出すと話が逸れに逸れるので詳しくは拙著にて。
言いたいのは、じゃあ「負けの受け入れ方」も欧州のいいとろだけを取り入れようということ。香川真司がプレーするマンチェスター・ユナイテッドの内側を見た、元韓国代表パク・チソンの証言だ。
「いつだったか、アウェイゲームで敗れ、マンチェスターに戻る道のりでこんなことがあった。チームバスは座席ごとにテーブルが取り付けてあり、選手は試合後、そこで食事を摂ったり、読書を楽しんだりする。試合に負けて憂鬱だった僕は、静かに席についていたのだが、一部の選手たちが車内でカードゲームを始めた。あまりに楽しそうにしているため『本当に負けたチームなのか?』と疑うほどだった」(自叙伝「名もなき挑戦」より。筆者が日本語翻訳を担当)
パクは、ヨーロッパの舞台でプレッシャーにさらされながら戦うチームにとって、負けとは「早く忘れるべきもの」だったという。あるいは「負けとの付き合い方が上手い」。少年時代、アジアの地で「負けたのに笑うな」と説教されたのとは大違いだったと。
08年4月、マンチェスター・ユナイテッドはチェルシーにアウェイで1-2と敗れ、チームは4連敗を喫した。さらに選手とチェルシーのスタッフとがトラブルも起こしていた。直後にバルセロナとのチャンピオンズリーグ準決勝が控える中、最悪の雰囲気だったが……。そういった状況でこそ、ファーガソン監督が先頭を切ってギャグを言い、練習で選手がふざけまくったのだという。絶体絶命に思われたチームは、1-0でバルサに勝ち、チェルシーとの決勝戦に駒を進めることになった。
これは「ヘラヘラしていても大丈夫」という話ではない。また4年に一度のW杯と年間を通しての戦いが続くクラブチームでは事情が違う面もあるだろう。
では何が言いたいかと言うと、観る側も敗戦について「日本からの祈り通じず」とか、「先制したまでは良かったが、頑張り実らず」といった感動ストーリーは少し置いておきましょうということ。あるいはチームについて外から文句を言うことも。「苦境から這い上がるストーリー」「次戦に向け緊迫」という煽りも。
結果という事実が残った。ただそれだけ。試合後のコメントから選手の間にもこのメンタリティが多少は浸透していると見た。長友は試合後、テレビ向けのインタビューでこんな発言をしていた。
「負けは負け。それ以上の何でもなくそれ以下の何でもない」
内田篤人はこうも言っていた。
「勝ち点ゼロはゼロなんで、しっかり受け止めなきゃいけないと思います」
拙著ではこのヨーロッパの「負けをとっとと認めて、忘れる」という考え方はキリスト教の「予定説」に基づいているのでは、という話を描いた。要は「神様が決めたんだから受け入れるしかない」と割り切れるのだ、と。彼らが”タフに見える”背景もここにあるのではないか、と。
▼未来:じゃあギリシャ戦をどう戦うべきなのか
これは当たり前の話をもう一度強調するしかない。
せめて攻めるべきなのでは?
よそでも言われていることだからここで強調することもない。「世界の舞台で攻める」ということを掲げて4年間やってきたわけなのだから。ただこれも厳密に言えば、ザッケローニ監督は「バランス」という言葉を就任直後から一貫して使い、「守備だけじゃなく攻めもやる」と言ってきたわけだ。
これは「日本化」を掲げたオシムが病に倒れ、岡田前監督が「守備的サッカー」で南アフリカ大会を戦ったツケを払わされているな、と思うところもある。スタート地点が「世界の舞台で攻める」ということだったので、「相手がどうなのか?」という点が見えにくくなってしまっているのでは……という話は終わった後にやりましょう。
とはいえ、結局攻めなければ、「攻めるという目標を立てただけで終わった大会」になってしまう。
「攻めた結果、どうなるのか」という点を知るために、もう4年待つのはずいぶんな遠回りになると思うのだが、あるいはこの段階で「現実路線」に舵を切るか? いや、そんな選択肢はとてもなさそうに見える。
いずれにせよ、攻めるためにこそ、まずはいい守備が大切。ここの読者のようなコアなサッカーファンが、こういった「サッカーならではの観点」を周囲に伝えに伝えに伝えまくるべきです。これがちょっともやもやするこの数日間に、日本の地からできることです。