移籍の”深層”。なぜ、工藤壮人はJ復帰に広島を選んだのか
▼FW獲得が急務だったクラブ事情
工藤壮人は、サンフレッチェ広島入りを断るつもりでいた。
2015年末、ジュニアユース時代から所属し、自身のサッカーキャリアの土台を築いた柏レイソルを離れ、アメリカのメジャーリーグ・サッカー(以下、MLS)のチーム、バンクーバー・ホワイトキャップスに移籍。大いなる飛躍を予感させたが、5月には試合中にアゴを骨折、全治2カ月という大けがを負って長期離脱を余儀なくされた。17試合2得点という数字以上にチームの勝利に貢献できなかったことが、柏史上最多得点記録を保持している元日本代表FWにとって屈辱的だった。新シーズンは、MLSという舞台で自分がやれることを証明するための年となるはずだった。
ただ、実は広島は工藤に対して何度もオファーを出しているクラブでもあった。2015年のオフにも彼に対して獲得の意志を示したし、今年の夏にも「広島でプレーしてくれないか」と代理人を通してオファーを出していた。今回のオファーに関しても受けるつもりはなかったが、これほどの熱意を示してくれるクラブの強化部長としっかりと面談をして、自分の意志を自分の言葉で伝えたいーー。12月上旬、工藤はそう決意して、広島の足立修強化部長と会った。そのことは後に、工藤自身から足立部長へと伝えられた「真実」だった。
広島にとってのFWは常に”補強ポイント”である。佐藤寿人(→名古屋グランパス)が前人未到の12年連続二桁得点(J2含む)を継続中だった時代にも李忠成(現・浦和レッズ)や石原直樹(現・ベガルタ仙台)、山崎雅人(現・ツエーゲン金沢)など、ストライカーを常に補強してきた事実でも証明できる。エースがあまりに偉大であったからこそ、そのエースを欠いた時にどう点を取るか、それは常に大きなミッションだったのだ。
2016年、有力な次世代エース候補だった浅野拓磨(現・シュツットガルト)が欧州に旅立った。今季の得点王に輝いたピーター・ウタカは期限付き移籍で去就も流動的。広島のFW陣は質・量ともに枯渇しつつあったことは事実で、クラブ史上第3代エース・佐藤寿人の移籍がなかったとしても、即戦力FW獲得はクラブにとっての急務だったのである。
▼工藤の”琴線”に触れた言葉
なぜ、そのターゲットが、工藤壮人だったのか。
「例えば、今はウチで活躍してくれている佐々木翔や柏好文は(ヴァンフォーレ)甲府時代、広島との対戦の中で実に手強い存在でした。今回、甲府さんから獲得した稲垣祥についても、同様の印象を持っています」
これは足立強化部長の言葉である。目の前で見せつけられた相手のハイパフォーマンスは、その試合の勝利に対しては大きな障害物。だが一方で「彼が広島でプレーしてくれたら」と考える一つのきっかけでもある。
「工藤もやはり、広島にとっては厄介な相手でした。ジョルジ・ワグネルやレアンドロ・ドミンゲスという”大立者”がいる中でも、彼の勝負強さや献身性が、われわれにとって大きな脅威となっていたのです。戦えるし、走れるし、ゴールを決めることもできる。彼であれば、ウチのスタイルにもフィットできると考えました」
12月上旬、工藤の想いも知らず、彼との面談で足立部長は熱弁を振るった。
「広島には、工藤君のようなタレントが必要なんだ。君と一緒に戦いたい。君とともにタイトルを獲ってACLに出て、クラブW杯で旋風を巻き起こしたいんだ。その中で君には、再び日本代表に復帰してもらいたい。工藤壮人は日本のために戦える選手だと思っているから。これから広島は第2章に入っていく。そこでの戦いに、君の力を貸してほしい」
精いっぱいの言葉に、結果として工藤の心はグラリと動いた。森保一監督とも電話で語り合い、当初の予定だった「お断りします」という言葉を告げられなくなった。
▼工藤壮人という男を物語るエピソード
足立部長によれば、工藤はもともと、広島というチームに好印象を持っていたという。プレースタイルはもちろん、アットホームな雰囲気も気に入っていた。「広島でプレーするのも悪くはないな」。そんな想いを心には抱いていた。その気持ちにプラスして直接聞いた、広島の熱意。いつしか気持ちは、変わった。
「工藤から正式な返事をもらったのは、(面談から)10日後でしたね。実はもっと早い段階で(広島入りの)決意していたそうなんです。だったらもっと早く、電話で返事が欲しかったんですが(笑)、工藤にしてみれば直接会って、こちらの顔を見ながら、返事がしたかったそうなんです。そのあたりは、彼の人間性ですね」
もちろん、サポーターとしては工藤壮人に「得点」を求めていきたい。2013年にはJ1リーグで33試合19得点とその得点能力の高さを証明し、2011年から6年間で56得点を奪取。パワーやスピードではなく、相手との駆け引きやゲームの流れを読み切る洞察力の高さでゴールを奪い取るその術は、佐藤寿人の流れを汲むと言っていい。加えてシャドーやMFでもプレーできる幅の広さも魅力の一つだ。「チームに貢献できるポジションなら、どこでもやる」と足立部長にも伝えているように、チームの勝利のために自分のすべてを捧げる彼のスタイルもまた、広島向きだろう。コンディションを整え、チームのスタイルに慣れることができれば、柏時代の躍動感を広島で発揮することは疑いあるまい。
前述したように、工藤壮人のプレーからは佐藤寿人を彷彿とさせる思考性と確かなシュート技術を感じさせる。ただ、寿人の象徴だった『11番』について、彼は足立部長にこんな言葉を送ったそうだ。
「寿人さんの番号は、そう簡単につけられるものではないと僕は思います。もし、11番を他の誰かがつけるとするならば、サポーターのみなさんが認め、納得する選手が背負うべきなのではないでしょうか」
これが、工藤壮人という男なのである。
中野和也(なかの・かずや)
1962年3月9日生まれ。長崎県出身。居酒屋・リクルート勤務を経て、1994年からフリーライター。1995年から他の仕事の傍らで広島の取材を始め、1999年からは広島の取材に専念。翌年にはサンフレッチェ専門誌『紫熊倶楽部』を創刊。1999年以降、広島公式戦651試合連続帯同取材を続けており、昨年末には『サンフレッチェ情熱史』(ソルメディア)を上梓。今回の連戦もすべて帯同して心身共に疲れ果てたが、なぜか体重は増えていた。