楽天イーグルスのノウハウを注入。開幕から好調を維持する山形・相田社長が行った「ストーリー戦略」とは?
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楽天イーグルスのノウハウを注入。開幕から好調を維持する山形・相田社長が行った「ストーリー戦略」とは?(J論プレミアム)
今年就任したモンテディオ山形の相田健太郎新社長。山形県南陽市出身の相田社長は、これまで㈱毎日コムネット、水戸ホーリーホック、㈱楽天野球団(楽天イーグルス)、ヴィッセル神戸と主にプロスポーツビジネスに携わってきた。行く先々でさまざまなことに挑戦し、実践してきた手腕はモンテディオ山形にとって心強い。さっそく、イーグルスでの経験を生かして、3月17日のホーム開幕戦ではポンチョ、5月5日には帽子を無料配布するなどで盛り上げている。また、相田社長は埼玉県立伊奈学園総合高校卒。同校の後輩としては社長就任の朗報にいてもたってもいられず、インタビューをさせていただきました。(聞き手・「大宮花伝」松澤明美)
▼イーグルスの経験が根幹
-就任会見のときに、勝つだけでなく面白さを見せたいと話されていましたが。
「楽天イーグルスに10年半お世話になりました。イーグルスがすごいところは最悪(負けること)を想定した集客、スタジアムづくりをしていました。お客様にチームに対する愛着、誇りを持ってもらえる球団になることが目標だった。それが根幹になっていると思う。チームの勝ち負けでお客様がこなくなったというのは会社として言い訳にしかならない。それはダメだと社内では言っている。これからチームが厳しいときもあると思うが、そのときに選手たちがやる気になってもらえる状況、環境を作りたい。フロントがここまでやっているから、選手も頑張ろうって思ってもらえるようにならないとチームは良くならない。それが一番重要だと思う」
-就任されて改めて思った点ですか。
「目標なのでJ1に復帰、昇格しないといけないのは義務だと思っているし、やらないといけないと思う。ただ、その価値観だけでクラブを見られてしまうと、それ以外の部分で良い価値も肯定されなくなってしまうのは、ちょっと違う気がする。山形県が中心にモンテディオ山形を設立、運営してくれた。また、まだ周りに当時を知っている方々、運営されていた方々がいる。例えば、地域が観光で何かやろうといった時、日本全国に対して、僕たちの地域にこのクラブがありますよって言っていただけることができる。そういったことに、もう少しだけ価値を感じていただけるとありがたいと思うときもあります」
「J1に昇格するなら常時1万人、そうじゃないとしても8、9千人は集客できるパワーをもっているクラブになってないと昇格したときにどうにもならない。J1に上がって、すぐに落ちてしまうクラブはJ1で戦う『会社』として準備ができていないと思います。現場はやる気になっているし、いいですよ。でも、支える会社(クラブ)がどれだけ強い想いを持って選手と共に戦えるかが大事。持ち場、持ち場で戦うっていうのはすごく重要」
-それはヴィッセル神戸や水戸ホーリーホックでの経験からですか。
「水戸で植え付けられたのはハングリー精神。感謝している。営業担当をしていて3年で1億円を目標に、1人で営業活動をした。当時は何も基礎がなかったので、いろいろなクラブの方々に『どうやって営業すればいいですか』って聞いた。タウンページの片っ端から電話をしたし、やれるところを全部やった。なんとか3年で目標の1億円にたどり着けた。4年目でフットサル場を水戸駅の屋上に作らせてもらって、フットサル場をやりながらグッズも売った。フットサル場の管理人をやりつつ、それまで通りに営業活動もしていた」
「最初に勤めた会社の毎日コムネットはサッカー大会をやっていた会社だった。そこでいろいろと覚えていたものもあったし、1面あれば何チームを呼んで、これくらいのお金をいただいて、賞品を選ぶなどを全部やった。大会をやりながら、フットサル場の運営費として月500万を売り上げればなんとかなるとやり続けていた。ただ、4年間やっていて将来について考えるところもあった。32歳だし結婚もしたいな、と。楽天イーグルスとソフトバンクホークスが人を募集していて、どうせやるなら国内で一番大きいプロ組織に行ってみたいと思い、楽天イーグルスに採用していただけた。野球業界に10年半いたあと、神戸に行かせてもらえるとは思わなかった」
▼サッカーの発想を野球へ
-毎日コムネットの経験が水戸でも生き、サッカーを経験したことが楽天イーグルスのスクール部部長時代に取り組んだプロ野球球団が初めて保有、運営するアマチュアチーム”東北楽天リトルシニア”発足のきっかけにもなりましたが。
「好きだったからやっていったらうまくいって。当時のコーチとご飯を食べ、『あのとき相田さんは何を言っているのだろう思ったんですよね』って言われた(笑)。どうせできないだろうと、みんなが思っていた。でも、やっちゃったから『この人はやっちゃうんだなって思いました』と言ってもらえた。球団オーナーの三木谷浩史さんが、野球もサッカーのFCバルセロナみたいな下部組織があればと言っていた。ただ、東北だからできたっていうのはある。まだチーム数は少なかったし、環境にも恵まれていた。サッカーでいうジュニアユースの仕組みを野球に持ち込んだ。そのままスクール部を担当していれば来年ドラフトに1期目の子たちが出て、あわよくばドラフトのくじ引きたいなんてこと考えたりもした(笑)」
-スクール部部長時代はどうでしたか。
「当時はサッカーをする子が増え、サッカーに行く子どもが増えていた時期でした。少年野球に集まらない理由がたくさんあると思いました。とにかく子どもたちが面白く、飽きないように色々やってあげたいと思いました。一番、面白かったのは4日間で5万円の合宿をやったこと。リュックとTシャツとキャップ、あとはベースボールパンツがついて、4日間の通いの合宿。40人の募集に120人くらいの応募があった。合宿のプログラムは先に発表していて自信があった。初日はチアリーダーのヒップポップ指導でリズム感を養い、初日午後はアメリカンノックという、どちらかというと遊びに近いノック。2日目は午前中に走り方を教えてもらい、ベースランニングの基礎を学び、午後に野球の練習をする。3日目以降は疲れてくるだろうから相撲をやろうとか(笑)。スイカ割りとかもしました。また、2軍の試合の参加イベントでスタメンをポジションで迎える際に、スタメンの選手からサインボールをもらったり。最終日は野球をやったあと、1軍の選手のサイン式紙をくじ引きで当てるレクレーション等のイベント後に親子で試合観戦してもらった。5万円の費用に対して十分すぎる内容と言ってもらえて、うれしかった」
「野球界では画期的かも分からないが、サッカーは横浜マリノスがやっていた。マリノスにも話を聞きに行った。マリノスは確かスクールが大きく展開し、歴史があった。あとはMLB(メジャーリーグベースボール)の研修にいかせてもらった際に、夏休み期間の少年向けのキャンプを見ることができた。シカゴ・カブスが同様のことをやっていて、500ドルとか600ドルでやっていた。マリノスもそういったことをやっていた」
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