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3年でJ3からJ1へ。大分・片野坂監督の強さには名将4人の影響があった

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3年でJ3からJ1へ。大分・片野坂監督の強さには名将4人の影響があった【無料記事】J論プレミアム

片野坂知宏監督に座右の銘を尋ねると、さほど迷わずに「実るほど頭を垂れる稲穂かな」と答えてくれた。謙虚さを尊ぶこの有名なことわざを選んだ理由はシンプルなもの。

「いい結果、良い成果を出せたのは自分のだけのせいではない」という考えがあるからだ。

片野坂監督の実績はめざましく2016年にJ3に降格したばかりの大分の監督に就任すると、1年でJ2に復帰。2017年にはJ2残留と、上位を伺う順位を維持し、昨季見事に2位でJ1自動昇格を手にした。

そうした実績について片野坂監督一人で成し遂げたわけではなく、選手、スタッフ、フロントはもちろん、スポンサー、サポーターのみなさんの支えがあってのことというスタンスに立つ片野坂監督の監督としての考えについて、聞かせてもらった。

西野、ミシャ、森保、長谷川。名将の下で研鑽な日々

--2016年の就任時の話を教えてください。榎徹社長からは育てながらチームを作って欲しいと言われたようですが大変だったのでは?
「16年に、ぼくが就任を打診された時も就任を決めたときもトリニータがJ2残留なのか、J3降格なのかがわからない状況でした。ただ、J3に降格しても、J2に残留したとしても監督のオファーを頂いたのは光栄なことだと思っていて、もし降格してしまった場合には、おそらく収入面でもダウンするだろうし、経営面でも厳しくなると。選手も何人かチームを離れることになるだろうということは聞いていました。ただ、そういう中でもやっていかないといけないですし、1年でJ2に復帰しないといけないとは思ってました」

--難しい状況だと思うのですよね、監督のキャリアを始めるという環境としては。それでも引き受けたのは大分に対する恩があったからでしょうか?
「それはもちろん。現役時代もトリニータでやらせていただいたり、引退後は強化にスカウトで入らせてもらったり、指導者としての第一歩もトリニータのU15からでした。S級ライセンスもトリニータのときに取らせてもらってますし、すごく恩を感じていました。その恩を返せるチャンスをもらったので引き受けました」

--不安はなかったのでしょうか?
「監督としての経験がないぶん、実際にどういう風に監督をやっていけばいいのか、というのは自分自身も少し不安なところがあったり、厳しいのは覚悟した中で、これでだめなら自分はまだ監督として未熟だと。まだ力がないんだと思うようにして、チャレンジするしかないなというところで覚悟を決めてやるようにしました」

--監督になるまでの過程を振り返ると、2006年にS級を取得したあと、07年にG大阪のトップコーチに就任したのが契機になっているように思います。
「2006年にS級を取らせてもらったあと、2007年にガンバの方からトップチームのコーチの依頼がありまして、これを受けました。
当時は西野(朗)監督がおられて、西野さんとはぼくが現役中にも監督と選手、コーチと選手という間柄でもやっていたので、そういうこともあってかコーチとしてのチャンスを頂けました。ガンバというビッグクラブでチャンスをもらった中でどう自分がコーチとしてプロの選手を教えていけるのか。本当に初めてだったので、手探りの状況でやるような感じでした」

--ここから名将の方々と仕事を続けてます。
「西野さんの元で、2007年から3年間やらせていただいて、非常に近くで西野さんのマネージメント力だとか見る目だとか。選手に対しての接し方だとかを見ることができたのは大きかったですね。自分が監督になったときのことを常に考えながらやりましたし、非常に勉強になりました。
また2010年には、自分がプロのキャリアをスタートした広島からコーチの依頼を受けました。監督はペトロヴィッチさんで、そこで2年間、また学ばせてもらえました。ペトロヴィッチさんは非常に攻撃的なサッカーで、今のぼくの攻撃のベースとなるところはペトロヴィッチさんのアイディアをもとにしています。いろいろな攻撃のやり方、サッカーの楽しみ方。そういうものを学ばせてもらいました」

--ペトロヴィッチ監督のあとは現日本代表監督の森保一さんです。
「森保(一)さんとは2年間ご一緒させてもらいました。その時にも森保さんのマネージメント力だとか、コミュニケーション力だとか選手に対する接し方の部分を学べました。選手を引きつける、盛り上げる。そういう部分はすごく大事だなと思いましたし、ぼくとか他のスタッフにもすごくコミュニケーションを取ってくれて、チームに一体感をもたせてやれるやり方をされていました。一緒に戦っているという意識を持てるようなチームマネージメントの大事さがすごく勉強になりました」

--さらに長谷川健太監督のガンバさんで2年間。
「2014年からになりますが、ちょうど長谷川健太監督がJ2からJ1に上がって1年目の年でした。そこから2年間でしたが、その時の長谷川健太さんは4バックをやられていて、攻守の狙いだとかアグレッシブな戦術だったりだとか、4枚でやるときの大事な部分を学ばせてもらいました。
また選手に伝えるやり方というところでも分析コーチと一緒に映像をよく使われていて、選手に対しての落とし込み方や戦術を浸透させるやり方というのはすごく参考になる部分も多かったですね。そういう方々のもとでコーチとして近くで見ることによって16年からの監督業のところはいいところどりではないですが、参考にできるところを大事にしてやるように心がけて始められました」

--ビッグクラブからJ3のチームを率いる立場に転身しましたが、指導法は違いますか?
「J3の時は広島での経験が役に立っています。広島はいわゆるビッグクラブではなく、資金力があるわけではない。そんな中、ペトロヴィッチさんと森保さんは、個人の能力の長けた選手にだけ頼るサッカーをしていなかった。それはすごく参考になりました。つまりチーム力で勝ち点を取るとか、結果を出すサッカーをしていたということ。その中で感じたのは一体感を持ってやることの大事さです

特に森保さんは競争させること、選手を偏った目で見ないでフラットに見ること。その中でしっかりとトレーニングからトライする選手、チャレンジしている選手、本当に取り組み方とか姿勢とかを大事にしてメンバー選考もされていました。そうすることで選手は気が抜けなくなりますし、練習でも出し切ってやらないといけないという気持ちになる。公式戦の緊張感に近い環境を作ることで競争が生まれてくると思うんですね。それが森保さんのときの連覇だったり、3回の優勝だったりにつながったのかなと思います」

--その経験を大分でも活かしていると。
「トリニータはそんなにお金のあるチームではないですし、ひとりの選手に頼ったサッカーはぼくはあまり好きではないので、チームとして戦えるような戦術をやりながらチャレンジさせるようにしたいなと思っていました。だからまず選手をフラットに見ることと、そういう中で競争をさせながらチーム力を上げていって、それに伴うような戦術をトライしていくのが大事かなということで16年は見ていました。この時は1年でJ2に戻らないとそのままJ3でズルズル行く恐れもあったので。J2からJ3に落ちたチームで1年でJ2に戻ったチームって当時はまだなかったんですよね。
だから一番プレッシャーがかかりましたし、責任というか、重圧を感じていました。16年は本当に勝負をかけた年で自分の監督としてのキャリアの勝負の年でした」

戦術はミシャ型をベースにスパイスを加える

--片野坂監督のサッカーの理想形はどういうものですか?
「ボールをしっかり攻撃で構築してつないで、相手の逆を突いて、いろいろな形から得点を取るということ。サイドからも、中央からも、カウンターも背後からも。いろいろなバリエーションの中で得点を取れるサッカーが理想ではありますね」

--そこに到達するには時間はかかりますか?
「ただ、去年も18年シーズンもJ2で一番、76点取りましたしリーグ戦で攻撃力というところでは一応それなりの数字としての結果は出せました。ただ、本当に理想的なサッカーで結果を出すことが必要であれば、たとえば外国人選手を含めた攻撃でクオリティを持つ選手、点を取れる選手を連れてきて、戦術に合わせられれば得点の部分ではもう少し結果が出た可能性はありました」

--3バックをやられているのはペトロヴィッチ監督との経験が大きいんでしょうか?
「そうですね。3-4-3の攻撃戦術に関してはペトロヴィッチさんがやられていて。やっぱりワントップツーシャドーの関係とか、サイドの攻撃とか、そういうポジションのとり方だというのは参考になりました。
3バックは2017年からはじめたのですが、これはJ2に復帰した年で絶対に残留したかったからです。だからJ3では4枚でやっていたのを3枚にして、守備時には5バックにしてある程度は固くしようと考えました。そのトライの中で、じゃあ5バックにするならミシャさんでやっていた3-4-3をベースに5-4のブロックを作るやり方でトライするのもありだなと。そうすると、守備は5-4-1のブロックを作り、攻撃だったら3-4-3でミシャさんがやってるような、幅と深みを取りながらしっかり判断してつないでいく攻撃をチャレンジできる。ですから17年シーズンはある程度ミシャさんとの経験の中で、自分が感じてたサッカーをトライするようにはしてました」

--これは仮定ですが、17年はJ2残留を目標にしていますが、あそこでもう少し目標をぼかしてたら、最終節まで昇格争いに加われていたのではないですか?
「そうですね。もちろん、目標は高く設定したほうが良いということはあると思いますし、残留とかよりもプレーオフとかトップ3に入るとか、もちろんそういうことはあると思いますが、ぼくの中では絶対にJ3に落ちたくなかったんですね。
まずは上よりも下を見ながら。落としたくなかったですし、勝ち点45を取れれば一応J2では残留できるだろうというところで、まずはできるだけ早くに45を目指そうと。だから残留というよりは勝ち点45をまず目標にしてやるような感じでした。それで、45を突破して、その時の順位によってプレーオフなのか、一桁なのか、自動昇格なのか。そういうところに軌道修正して、目標をその都度その都度変えていこうと。それはJ2は42試合もありすごく長くて、ずっと試合が続いている。とは言え目の前の試合が大事だし、目の前の試合で勝ち点を上積みしていく。1でも取っていくということが結果につながっていくと思ってたので。まずは45というのは言ってました」

--2018年は勝ち点70、プレーオフ圏内が目標だったということでしたが、2位で自動昇格。どういうシーズンでしたか?
「去年も拮抗しましたし、一節ごとに順位が変わったり、どこがプレーオフ圏内に行くのか、自動昇格するのか。もう最後までわからないような状況だったので。自分たちの目標としてはプレーオフ圏内で、勝ち点は70でした。17年に6位に入ったヴェルディが68だったので70を取れれば6位以内は行けるのではないかというところで70に設定しましたが、それをクリアしたあとも、一つ負けるとプレーオフ圏内から落ちてしまうような緊張感のあるシーズンでした」

しっかりと逃げ道を作るチームマネジメント

--対戦相手によって少しずつシステムを変えるというのは、選手によっては監督がぶれたという言葉も出てしまうかもしれない。でも、そういう声は出てこない。ぶれない芯はどうやって作ったのでしょうか?
「そんなに大きな変化はしなかったというのはあります。3-4-3の戦術の中でつないでいくということ。攻撃に関しては、常に相手の状況、相手の変化を見るということ。自分たちのボール保持の状況を見て、ポジションを取るということは変わらないので。

その中で状況によってプレッシャーがかかるゲームがあったりとか、うまくいかないゲームがあったりする中では選手に逃げ道を作ってあげていました。あまりこだわり過ぎても良くないし、判断を求めすぎても選手がパニックになってしまったら良くない。選手が思い切りよくプレーできないのも良くないと思うので、判断に迷ったり、判断がなかったときは蹴ってもいいよと伝えて、あまり選手に求め過ぎないようにはしてました。

その辺の少しの変化とか、少しの選手へのアプローチは変えながらやりましたが、だけどそうは言ってもチャレンジできるならやっていこうよ、ということを伝えました。立ち返る場所、というか自分たちのベースのコンセプトになる部分についてはブレずにやるようにしました」

--最近の風潮ではピッチ上で判断して完結できるのがいいというのがありますが、そこで求めすぎるとパニックになってしまう事があると。
「特に去年だと、プレーオフが決まるかどうかとか、昇格が決まるかどうかという大事な試合が続きました。うちの選手は、J3からの昇格を経験している選手はいましたが、J2での自動昇格とかプレーオフ圏争いといった戦いを、J2の大きな舞台で経験していない選手が多かったので。やっぱり見えないプレッシャー、緊張感とかはあったと思います。
これで勝ったらプレーオフだとか、これで勝ったら自動昇格圏内だとか、そういうのを感じながらやっているとどうしてもぎこちなかったり、硬かったりと言うのはありました」

--決勝戦状態が終盤になると続くわけですね。
「もうそうですね。なのでちょっと固いゲームになってくると、自分たちがやろうとしていることもうまく行かなかったり。うまくいかなくなると、選手たちも焦ってきたりする。そうなったときにこっち側のコーチ陣があまり選手に対して焦るようなことを言うと、選手もまたパニックになったりするので。余裕だよ、と。全然それで良いんだよ、というくらいの感じでアプローチするような形にはしました」

--選手に対する責任の求め方、褒め方はどうですか?
「ぼくは負けたら監督の責任、勝ったら選手のおかげだと思っています。選手はミスするものだと思いますし、完璧な選手は居ないと思っているので。試合中にミスが起きた場合も、その選手を選んだのは自分なので、結局は自分の責任だと思います。
選んだ選手がピッチでちゃんと90分戦って良い成果につながるようにしていくのがぼくらの、コーチングスタッフの役目だと思ってますし、それができればその役目を全うできたということ。選手がそれに向けてしっかり応えてくれたおかげだと思います。できなかったらこちら側が選手を持っていくことができなかったということ。それはぼくの責任になると思ってます」

--監督として選手個人を非難することは?
「ぼくは基本したくないですね。選手のせいにしたくないし、選手はとにかく思い切って自分の持ってるものを出し切ってトリニータが勝つために、いいゲームをするために持ってるものを出し切ってくれればと思ってます」

--去年はゲームプラン、コンビネーション、コンディションの3つの基準で毎試合メンバーを入れ替えたと聞いているのですが、そのスタンスは就任からずっとそうなんでしょうか?
「そうですね。ぼくはメンバーをあまり固定する方ではなく、得点取った人もそのまま必ず次のゲームで使えるかというと、サブになったり、ひどいときはメンバー外になったりということももしかたらあったかもしれません」

--得点をとった選手はだいたい使いますよね
「そうですね。良く勝ち流れとか言いますが、ぼくはあまり勝ち流れというのは気にしません。次のゲームに対してこっちがどういう準備をして、どういうゲームプランを持った中でコンディションを見極めて、選手をあてはめて行くのか。その中で誰を先発にして、誰を途中から出して、誰をメンバーに入れて、ということをプランニングするようにしています。そのプランに得点を取った人がハマるなら継続ですし、それがだめならまた違う選手にやってもらいます。やっぱり1シーズンを、先発の11人、ベンチの18人だけで乗り切れるわけではないので。いろいろな選手が常にいい準備をしてくれてるので。そうやってフレッシュな選手を使ったとしても、チームに貢献してくれますし持ってるものを出してくれる。そうやっていろいろな選手を使うことで、選手も緊張感、危機感を持ちながら練習できるようになる。そうすることでトレーニング自体の雰囲気だとかクオリティもすごく上がってくるし、ゲームに近い状況でトレーニングできるのはすごくいいことだと思います」

--それは先程話していただいた森保さんとの経験が大きいんですかね。
「そうですね。森保さんは常に選手をフラットに見てましたし、そういう中でしっかりやってる選手を評価してなるべくメンバーとか先発とかに入れるような形でやられてましたね」

(取材・構成・写真/江藤高志)

(後編に続く→『J2オールスター補強を実現させるために大分・片野坂監督が行ったこととは?』)

江藤高志

1972年大分県中津市出身。工学院大学大学院中退。出版社勤務を経て、1999年よりフリーライターに。大分やJ2を専門としていた縁もあり、01年ごろから川崎フロンターレでの取材を開始。04年からJsGOALフロンターレ担当となる。フロンターレでの取材経験を活かすべく「川崎フットボールアディクト」を立ち上げた。
なお、自他共に認める大酒飲みだったが、2014年4月16日から優勝祈願の禁酒を継続。2017年にリーグタイトル獲得を契機に解禁した。なお、宇都宮徹壱さんにお声がけいただき、飲酒解禁イベンを実施。多くのサポーターが集まってくれた。ただただ感謝。



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