J論 by タグマ!

「ベースを作った豪州留学時代。異国の地で身につけた生きる力とは?」片村光博/前編【オレたちのライター道】

中学生の頃に開催された2002年の日韓W杯で盛り上がっている大会を見て、おぼろげながらサッカーに携わる仕事がしたいと思い始めました。

“ライターの数だけ、それぞれの人生がある”。ライターが魂を込めて執筆する原稿にはそれぞれの個性・生き様が反映されるとも言われている。J論では各ライター陣の半生を振り返りつつ、日頃どんな思いで取材対象者に接して、それを記事に反映しているのか。本人への直撃インタビューを試み、のちに続く後輩たちへのメッセージも聞く前後編のシリーズ企画がスタートした。第8回は『Omiya Vision』の片村光博氏に話を聞いた。

GNJ_4150.jpg

▼留学を決断した理由

ーー学生時代は異色の経歴だったと聞いています。

片村 中学校から中高一貫教育の学校に通っている中で、高校1年生の終わり頃から高校2年生に進学する直前に単純に英語を話せるようになりたいと、留学を決意しました。しかし、いろいろと留学に関して調べていく中で希望していたイギリスへの留学は金銭的な負担も大きく、仲介を頼むことになった会社から提示された豪州を行き先に決めました。行き先となる地域としてはパース、キャンベラ、メルボルンの三択となり、パースとメルボルンの留学先の高校は卒業まで3年の時間が必要、キャンベラは2年で卒業できるとのことでした。高校の留学が終わって、日本に戻った際に、日本の高校の卒業生と同じ年齢になるのは、2年で卒業できるキャンベラの学校だったので、最後はキャンベラを選択しました。

ーー現地での生活はどうされていたのですか?

片村 ホームステイを活用しました。高校時代は最終的に3つのホームステイ先にお世話になりましたね。ただ最初のホストマザーとは折り合いが悪かったんです……。高校の食堂のおばちゃんの家にお世話になったのですが、相性が合わずに、1週間でメンタリティーがやられてしまいました。ホストマザーは最初から英語で意思疎通ができるものだと思っていたみたいですが、当然こちらにそこまでの英語力はなく、つたない英語で何かを聞いても教えてももらうよりもあきれられることが多く、相手がイライラしている様子が伝わってきました。何度か衝突したこともありましたし、現地のアドバイザーに相談をして、違うエリアの家でお世話になりました。 

ーー次のホームステイ先はどうだったのですか?

片村 二つめはインド人の移民の家でした。すでに中国人の留学生が住んでいて、食事の環境はそれほど良かったとは言えませんが、必要以上に干渉してこなかったので、我慢して暮らしているというほどでもなかったです。その家には約1年間お世話になりましたが、諸般の事情で三つめの家に移ることになりました。

そこはポーランド人の移民の家で、未亡人の方がホームステイを受け入れてくださり、その方は一人暮らし。二人の子どもは独立していて、一人は銀行員。もう一人はAリーグ・シドニーFCのプロサッカー選手でした。その家に移ってから、残りの高校生活は10カ月あまり。ご飯もおいしく、過干渉されることもなく、個人として尊重してくれましたから居心地が良かったですね。最初からこの家ならば……と思いましたが、学校からは一番遠い所にある家だったので、受け入れ先の優先順位が低かったんだと思います。

僕が通っていた学校は、日本で言うJFAアカデミーのようなAIS(豪州国立スポーツ研究所)に所属している選手たちが通うような学校だったので、筋肉ムキムキの学生が多かったです。卒業アルバムの卒業生一覧にはビドゥカ、ニール、チッパーフィールドら、2006年のドイツW杯に出場した豪州代表がたくさん写っていました。

ーー高校2年間の留学で何を得ましたか?

片村 日本は恵まれた環境であることが分かりました。これは英語とは関係のないことですが、理不尽なことが起きた時にどう対応するか。それは鍛えられましたね。最初のホームステイ先で学んだことですが、理不尽なことが起きた時に何か行動を起こさないと、精神面だけが削られてしまいます。また留学をするまではどちらかというと社交的ではなかったのですが、自分の殻に閉じこもっていても現地の人とは仲良くなれませんから、自分から積極的に動くように心がけていました。

▼2002年日韓W杯に魅せられて

ーー留学先の高校を卒業した後はどうされたのですか?

片村 結局2年間キャンベラにいましたが、その2年間で英語がペラペラに話せるようになったかと言われたら、決してそうではなかったので、せっかくならば豪州に残って勉強をしたほうが集中できるだろうと思っていました。そして豪州の大学は入試制度ではなく、高校生活の成績で大学入学が決まる部分が大きかったですし、成績も比較的良かったので、受験をすれば本当にトップクラスの大学以外なら行けるぐらいのレベルでした。帰国してわざわざ受験をやり直して勉強の部分でリスタートになってしまうことがもったいなかったので、豪州に残るという選択をしました。

ーー片村さん自身の感覚で、英語を習得できたと思うレベルとは、どの段階なのでしょうか?

片村 2年間いただけでは、お互いの話し方の癖が分かって入れば話は通じますが、例えば初対面のお店の人と談笑をするという話になると、すべてが通じるわけではありませんでした。現実問題として初対面の人とコミュニケーションが取れないと実用的な英語とは言えないのではないかと。自分の中でそういった基準があったのですが、高校卒業段階での英語力はそこまで足りませんでした。

ーー豪州の大学ではどんなことを勉強していたのですか? また実際の生活はどうされていましたか?

片村 インターナショナルスタイディズと言われる国際関係学に、ジャーナリズム関連、また国際関係の学部だったので、中国語とスペイン語を履修していました。大学では寮生活でした。ご飯は基本的に自炊。5人で一つのキッチンを共有して使用していました。1年目は学校の勉強がどんな状況か分からなかったので、勉強に集中できる環境を作っていましたが、大学生活2年目からは日本食料理店でウェイターのアルバイトをしていました。

ーー大学生活を経て、英語力はどこまで身についたという実感を持てましたか?

片村 日常生活で話せるベースは身についたと思います。TOEICの点数ですか? 2回だけ受けて、2回目は990点満点の945点だったと記憶しています。

ーーすごい……。ちなみに先ほど豪州の大学でジャーナリズムの勉強をされていたというお話でしたが、その方面で仕事がしたいと思ったきっかけは何ですか?

片村 中学生の頃に開催された2002年の日韓W杯で盛り上がっている大会を見て、おぼろげながらサッカーに携わる仕事がしたいと思い始めました。どうすればそれができるのか、その一つがメディアで仕事をすることなのかなと。

GNJ_4117.jpg

▼Jクラブへの猛アプローチ

ーー現地での大学生活を終えたあとは、どうされていたのですか?

片村 2010年に帰国したあと、ちょうど南アフリカW杯があったので、大会を堪能しました。そして11年からはどうするか……と検討して、「そうだ、大学院に行こう!」と。大学院のジャーナリズムコースを受験して、仮に不合格ならば就職しようと決めました。その結果、合格したので、大学院ではスポーツジャーナリズムを専攻しました。そこではスポーツ報道を学びながら独自の研究に取り組み、テーマは集客に対してメディアが果たす役割。ただあまり面白い研究結果にはならなかったんですよね……。

また今の仕事にもつながってくるのですが、大学院1年生の時には学業と並行して、インターンでJクラブの仕事に携わろうと、J各クラブのホームページのお問い合わせフォームに「インターンを募集していますか?」という打診をしました。その中でFC岐阜から2週間、インターンができるという返事をいただきました。岐阜ではホームゲームのイベントの設営から試合告知のチラシ配りなど、さまざまな裏方仕事に携わらせていただきました。

その岐阜で後々につながるエピソードがあります。当時、岐阜に所属していた菅和範選手(現・栃木SC)が左SBにコンバートされたばかりで、全体練習のあとの居残り練習でクロスボールの練習をしたいからと、インターンの僕がパスを出して、そこから菅選手がクロスを蹴る練習に協力させていただきました。僕は2013年にエル・ゴラッソ(以下、エルゴラ)の栃木担当をやらせていただくのですが、菅選手へ担当就任の挨拶をした時にその岐阜での話になりました。ありがたいことに菅選手は当時のことを覚えていてくださいました。それはうれしかったですね

(後編「Webマガジンを始めた理由にもつながる大宮のポテンシャルとは?」

大宮の明朗系・片村光博

1989年1月26日生まれ。東京出身、東京育ち(途中、豪州キャンベラで5年半)。2002年の日韓ワールドカップを機にサッカーにのめり込み、約10年後の2012年、サッカー専門新聞『エル・ゴラッソ』のインターンとしてサッカー業界に身を投じる。編集手伝いから始まり、2013年には栃木SC担当で記者として本格的にスタート。2014年は大宮アルディージャとジェフユナイテッド千葉の担当を兼任し、2015年からは大宮に専念している。効率的で規律のあるサッカーが大好物。有料WEBマガジン『OmiyaVison』主宰。