J論 by タグマ!

「ライターになるきっかけとなった転機と動機とは?」江藤高志/前編【オレたちのライター道】

主な移動手段はヒッチハイク

“ライターの数だけ、それぞれの人生がある”。ライターが魂を込めて執筆する原稿にはそれぞれの個性・生き様が反映されるとも言われている。J論では各ライター陣の半生を振り返りつつ、日頃どんな思いで取材対象者に接して、それを記事に反映しているのか。本人への直撃インタビューを試み、のちに続く後輩たちへのメッセージも聞く前後編のシリーズ企画がスタートした。第6回は『川崎フットボールアディクト』の江藤高志氏に話を聞いた。

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▼コパ・アメリカの現地観戦が転機に


ーーまずはライターになる前は、どんなお仕事をされていたのですか?

江藤 大学院を中退したあとの1997年1月にワードやエクセルの使い方といった技術系の出版社へ入社しました。この会社に編集者として在籍中の98年にフランスW杯を現地で観戦。それに味をしめた99年にパラグアイで開催されるコパ・アメリカを現地で観戦しようと考えました。5日間の有給を取り、前後に土日休みを含めれば9日間休むことができるので、有給の申請を出したところ、社長から「もし行くのならば会社を辞めていけ」と通達されました。相当悩みましたが、結局会社を辞めることを決断して、コパ・アメリカへ行くことにしました。いろいろと後には引けない状況だった、という個人的な事情もありましたからね。

ーーその後には引けない状況とは?

江藤 サポティスタというサッカー関連のサイトに携わっている方が「コパ・アメリカの現地観戦に向けて情報交換をしよう」という話を立ち上げて、そのメンバーを僕が主導で集めて開催しました。20人ぐらいが集まって、情報交換した経緯もあったため、僕が参加を取り止めるわけにはいきませんでした。

ーーなるほど。

江藤 ただその出版社さんには申し訳なかったですが、就職する前からいつかはサッカーライターをやりたいと思っていたので、結果的に辞めて良かったと思っています。91年に僕は地元の大分県の中津市という街から大学に入学するために上京してきたのですが、大学在学中にJリーグができて、サッカーバブルに取り込まれるんですね。当時はニフティなどのパソコン通信の時代でしたが、徐々にインターネットの環境が整う中、ネット界隈でサッカー関連の掲示板が立ち上がりつつあるという時代でした。

そんな時代背景の中、僕の就職先はインターネットに業務という名の下で触れる環境があったので、サッカー系の掲示板の記事や投稿をそれまで以上によく見ていました。学生の頃から思っていたのですが「こんな原稿じゃダメだ。一次情報に触れることができればもっといい原稿が書けるのに」と憤りをより強く考えるようになり、在職中の頃くらいから素人文章を書くようになりました。当時の代表は炎のユニフォームだったので、青い炎の会と書いて”青炎会”という日本代表を応援するホームページを作りました。

ーー自分でホームページの立ち上げに携わるとは、かなり積極的ですね。

江藤 97年11月にソウルで行われたW杯予選の日韓戦を応援に行くために作られたと記憶していますが、メーリングリスト『GO TO SEOUL(以下、GTS)』という集まりがあってそこにも顔を出していました。実際にはそのW杯予選の日韓戦には行っていないのですが……(苦笑)、さまざまなネットコミュニティに親しむ中でサッカー関連の人脈が広がっていきました。

例えば、翌年の4月にはW杯の共催国が仲良くフランス大会行きを決めたことを記念する日韓戦の親善試合がソウルで開かれましたが、その試合でソウルに行った際だったと思うのですが、毎日新聞の記者の方と出会いました。その方は毎日新聞が韓国紙の記事を日本語訳にして日本に紹介するコーナーを担当されていて、サッカー担当の記者でもありました。やはり日韓のことを伝える上でサッカーは重要な切り口だったため、AULOS(アウロス)という毎日新聞系のサイトでソウルの試合に関する記事を書くことができました。

ーーさまざまな出会いがサッカーライターを始めるきっかけにつながったのですね。

江藤 99年のコパ・アメリカでパラグアイに行く飛行機の中ではカメラマンの六川則夫さんと出会いました。この出会いものちに僕の人生に関わってきますが、さまざまな出会いが僕のサッカーライターとしての人生を大きく左右したことになります。コパ・アメリカから帰国した99年の7月末付だったと思いますが、勤めていた出版社を辞めてフリーとして活動を開始。最初の取材が西が丘でのFC東京の試合だったと記憶しています。そして同年の9月に駒澤で開催されたFC東京と大分との試合で六さんと再会したのです。

ーーちなみにライターとしての原動力は、「オレならこう書く」という気概だったのですね。

江藤 当時の記事の書き方は一面的だったと思います。試合中には監督の采配もピッチ上の駆け引きもあるのに、選手のことにうっすら触れて原稿が終了するといったように。僕は選手のコメントを引用しながら、選手の言葉で試合を振り返りたかったんですよね。基本的に僕の記事の書き方のスタンスは、仮説を立てて、その仮説を選手にぶつけて、その反応を軸に原稿を書いていく形です。理系出身なので、仮説を立てて実験し、結果を考察して文章にまとめる訓練を受けているんですね。その過程がサッカーには合うんです。そもそもサッカーは論理的に読み解く余地のあるスポーツなので、選手のコメントを軸に論理的に原稿を書けないかなと思っていました。

 

▼売り込みをかけた駆け出しの時代

ーーサッカーライターを始められてからは、どのような形で仕事の幅を広げていったのですか?

江藤 取材先ではサッカーマガジンとダイジェストの取材パスをぶら下げている人にガンガン声をかけて名刺を渡して「ライターを始めました」と自己紹介をしながら、売り込みをしていました。大分トリニータを取材先として選んだ理由は、自分自身が大分出身であることと、大分を書くことでクラブをサポートできればなと考えていたからです。当時の監督はイシさんこと石崎信弘さんで、この出会いがのちにフロンターレへとつながります。

99年の大分はJ1昇格争いをしていました。その昇格が決まるか、というタイミングで六川さんから『フットボールウィークリー』という媒体で原稿の発注を受けました。一つの媒体に原稿を書けた実績がその先の仕事のトリガーになりましたね。マガジンやダイジェストの方に「こういう原稿を書きました」と読んでもらうことで僕の筆力も理解してもらえたようでした。

ーーただ当時の大分は惜しくもJ1昇格を逃しましたよね。

江藤 最終節を前に大分がFC東京を勝ち点で上回り、昇格圏内の2位に入ったことで最終節に勝てば昇格、という状況でした。ところが迎えた最終節。大分は山形を相手に終盤までリードをしながらも、後半のアディショナルタイムに現・甲府監督の吉田達磨さんにゴールを決められて延長戦に突入。延長戦でも勝ち越し点を奪えずドローに終わりました。

一方の最終節のFC東京は新潟との対戦でした。そのシーズンのFC東京は一度も新潟に勝っていなかったのにもかかわらず、アウェイでFC東京が勝ち、大分が勝ち点1差でJ1昇格を逃すという事態になりました。昇格原稿を書きたかったです。翌年の2000年の水戸vs大分のマッチレポートがダイジェストでの初めての原稿でそれ以降、J2の大分のアウェイゲームがほとんどでしたが、マッチレポートを何度か書かせてもらえるようになりました。

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▼主な移動手段はヒッチハイク

ーーちなみに大分への移動手段はどうされていたのですか?

江藤 東京を起点にヒッチハイクで南北に移動していました。フリーですから取材費は出ません。ただ、時間はありました。だから空き時間で移動費を稼ぐためのアルバイトをするか、その時間でヒッチハイクをするのかの二択でした。僕が選んだのはヒッチハイクでした。

最初のヒッチハイクでの移動がは8月のお盆の時期に札幌で行われた札幌vs大分の試合でした。ヒッチハイクでの移動に詳しかったのが、僕をパラグアイに追い込んだサポティスタの方で、彼にノウハウを聞きました。方法としては高速道路に乗るクルマにまず拾ってもらうなどしてパーキングエリアやサービスエリアに移動し、そのまま高速道路で移動するというやり方です。クルマを見つけるのは、段ボールに行き先を書いて待っているというスタイルでした。

初めてのヒッチハイクのときは、まず宇都宮まで電車で移動して宇都宮在住の友人に宇都宮のサービスエリアまで送り届けてもらいスタートしました。行き先を書いた段ボールを持ち待っていたところ、すぐに1台目に乗せてもらいました。帰省ラッシュで混んでいたのを覚えています。

確か木曜日に家を出て、土曜日の早朝には札幌に到着していたかな。途中フェリーに乗ったりしましたが、試合には間に合いました。99年の頃はまだ大分のサポーター組織も整備されていなくて、この試合の大分側のゴール裏には大分のサポーターは一人もいませんでした。

ーーたしか江藤さんは一時期、『J2太郎』という肩書きをお持ちだったと思います。

江藤 そうですね。大分の取材は03年ぐらいまで続けていましたが、01年3月にtotoが始まりました。それで確か01年にスカパー!で『Jリーグナイト』という番組が始まって、その番組の中でtotoに関連してJ2の情報も取り上げることになったようです。

そうした背景があってJリーグナイトのディレクターさんがJ2を語れるライターとして僕のことを推薦してくれました。最終節の悲劇に関連して大分を取材していたことがあり、そこでつながった方でした。編集会議のときに「彼の名前はなんだっけか。とりあえずJ2太郎でいいか」と言われていたのがJ2太郎の名前の由来です。そのディレクターさんから「打ち合わせに来てほしい」と言われたため、スカパー!に行ったところ、それが番組の編集会議でした。

初回の放送ではMCの中西哲生さん、ヨーコ・ゼッターランドさん、サッカーダイジェストやマガジンの編集長、そしてスポーツ紙の記者の方など、そうそうたるメンバーがいました。その初回の収録の帰りのゆりかもめの中でスポニチの方から、「『J2太郎』でコラムをやりませんか?」と持ちかけていただきました。

ありがたいことにスポーツ新聞で原稿を書くとJ2太郎の名前も売れましたし、スポニチでの連載も3年ぐらい続いたのかな? 最初はJ2太郎というニックネームに違和感を感じていたのですが、NHK大分の知り合いの記者さんに「リーグのカテゴリーが入ったペンネームなんてなかなかないですよ」と言われて考えを変え、名刺にも『J2太郎』の名前を入れてみたりして(笑)。最初は飛ぶ鳥を落とす勢いでしたが、次第に凋落していきましたが(笑)。番組出演も1クールで降板することにもなりました。

ただ最終的には番組を降板することになりましたが、演者の方々と知り合えたことは財産ですし、良いことのほうが多かったです。

J’sゴールについては、その昔運営されていたisizeというサイトの担当者が、GTSのメンバーと知り合いで、その関係でつないでもらい、それがJ’sゴールにつながっていきました。いろいろと運が良かったですね。

(後編「川崎フロンターレを追いかける者として、抱いている思いと願い」)

 

【プロフィール】
江藤 高志(えとう・たかし)
大分県中津市出身。座右の銘は感謝と反省。大分トリニティのおかげで故郷を見直せた。川崎フロンターレの温かさが生きがいに。90年台初頭のカズは僕にとってリアルに神様だった。現在、タグマ!で『川崎フットボールアディクト』を運営中。