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大木サッカーの方法論 methodology【好調・岐阜の理由を紐解く】

第12節で大分トリニータに敗れて順位を落としたものの、それでも10位。3月の3連敗から一転、4月を4勝1分の無敗で乗り切ったFC岐阜が、昨年までとは違うチームに変貌しつつあることは明らかだ。この変化の要因は何なのか。指揮を執る大木武監督が追求するサッカーとは何か、そして現状の岐阜はどういうチームになっているのかを、J2第10節までの取材を基に、二回に分けて考えていく。

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▼大木サッカーの源流

 大木武監督のサッカーを紐解く上では、2005年の天皇杯が欠かせない。当時、同監督が指揮を執っていたヴァンフォーレ甲府とイビチャ・オシム監督が率いていたジェフユナイテッド千葉との4回戦だ。この試合は11月9日の水曜日に行われた。Jリーグヤマザキナビスコカップ決勝に進出した千葉は、予定されていた11月3日に4回戦を消化できず、予備日の9日に開催されることとなったのだ。甲府にとってはリーグ戦との連戦。先発メンバーの大幅な入れ替えを実施してもおかしくはなかったが、大木監督は主力を休ませずに真っ向から激突して延長までもつれ込み、トータル3-2で敗れた。

 試合後、大木監督はオシム監督に「あなたを目標にしてやってきた」と伝え、オシム監督は大木監督の甲府を賞賛した。のちにこの試合の重要性について大木監督に訊くと、2-1の1点ビハインドからアディショナルタイムに3点を奪い大逆転勝利を挙げた11月23日のJ2第42節・コンサドーレ札幌戦よりも大きな意味を持ち、昇格への弾みをつけた一戦であったという。

 このときのオシム千葉とタケシ甲府の共通点が一つある。戦術は異なっていても同じもの。それは”プレー”を続けることだ。大木用語に於ける”プレー”とは、具体的にゲームを進めようとする行為であり、ボールに関与するか、または関与しようとすることを意味する。寝転んで時間稼ぎをするような”アクト”ではなく実際に人とボールを動かすことだ。だから転んで休もうとする選手を大木監督は”アクター”と分類し、忌避するし、”プレー”をする選手を”プレーヤー”と呼ぶ。

 この絶え間なくプレーしようとする積極的な姿勢は、90分間続くプレッシングとラインの押し上げ、素早い攻守の切り換え、豊富な運動量、ボールを持ったら必ず仕掛けること、前に前にとボールを通そうとする事象となってあらわれる。そしてそれは2017年のFC岐阜にも見受けられる。

▼”大木イズム”が浸透している証左 

 ただし、埋めがたいものもあった。サッカーに取り組む以前の社会的背景の違いだ。オシムはバルカン半島の出身なので生きている間に戦争を経験している。その深刻な状況が自ずともたらす真剣さは、平和ボケした日本人にはないものだ。

 ないのなら、ほかのもので埋め合わせないといけない。

 FC岐阜では見たところ、先発メンバーに関して言えば少なくとも3人ほど、独自に背景を持ち得ている選手がいる。シシーニョには欧州で生き抜くのに欠かせないであろうプロ意識、庄司悦大にはストイックなこだわりと強烈な自信、難波宏明にはここが最後かもしれないという予感から来る現在の職場にかける気持ちが、それぞれある。

 まだ何かの色に染まり切っていない、素直で吸収力が高い選手たちは、大木監督が掲げる独自のサッカーを遂行するのに適した性質を持っているが、同時にのんびりし過ぎているきらいもある。もう一段階上の水準に到達するには、難波のような何かを個々に会得していく必要がありそうだ。

 首位を走る横浜FCに逆転負けを喫した3月19日のJ2第4節終了後、CBの青木翼は「相手の攻める時間帯が多いほど失点につながる部分が多い」と言っていた。守備をする時間を短くしたほうが失点をする可能性が減るのではないかという大木監督の哲学が浸透したものだろう。また、右SBの大本祐槻は、失点をしないことが一番良いという前提で「失点をしてしまったという反省より、毎試合得点機がたくさんあるので、チャンスを逃さないことを追求するべき」と言った。攻撃の比重が高いことをうかがわせる認識だ。

 それにしても、攻撃に割合を割き過ぎなのではないか。自陣からつなぎ、攻撃していくやり方が、自陣近くでの守備の不安定性につながっているようにも見える。同じ横浜FC戦後、大木監督に「失点場面を鑑みて、安全な遠ざけ方やつなぎ方を教えていく必要があるか?」と訊ねると、最終的な答えは「(失点場面から遡ると問題が見つかるが)もしかすると、そういうところに目をつぶって次のことをやっていくのが大切なのかもしれない」だった。すべてが連動し、無数の状況が発生するサッカーであればこそ、優先順位を付けてやるべきことを整理していかなくてはいけない。どうやら大木サッカーの根底にあるのは、点を獲って勝つための方策であるようだ。

▼興味を惹かれる理由

 3-2から3-3に追いつかれて引き分けた湘南ベルマーレとのJ2第8節では、大木監督は失点を責めず、4点目を奪えなかったことを悔いた。庄司はそれを認め、「『90分間プレーしろ』とは監督に常に言われているので、それだと思います」と言っている。3-2で守り切るのではなく、4-3を目指すべきという話からなぜその言葉につながったのかは少々分かりにくい。おそらく<90分間プレーしつづける≒何点獲られようがタイムアップの笛が鳴るまで得点するためのアクションをつづける>という意味なのだろうが……、それはさておき、ここでも”プレー”に庄司が言及したことが興味深い。使用頻度が高い普通の単語なので見過ごされがちだが、大木監督のサッカーに於いてはこのプレーという言葉が大きな意味を持っている。

 最後尾から果敢に攻め上がり、危機には全速力で戻って相手ボールを蹴り出しスローインにする、そんなヘニキの姿勢はチームを鼓舞するものだが、彼自身はその行動を精神的に意味があるものとしては語らず、純粋に戦い方に由来するものだと言っていた。

「攻撃参加は(前段に)監督の指示があってスペースがあったから。攻撃にも行って守備にも速く戻ってくる、監督のサッカーをやろうとしてそういうプレーになっていると思います」

 これは1-0の完封勝利を収めた4月29日のJ2第10節・ツエーゲン金沢戦<白山ダービー>のあとのヘニキの言葉だ。精神論が先に来るのではなく、良いサッカー、良いプレーを追求することで、メンタルにいい影響があるということなのかもしれない。

 同じ試合のあと、庄司はこう言った。

「練習に見に来ていただければ分かりますけど、とても良い雰囲気で練習できている。試合に出ている選手も出ていない選手も同じようなテンションというか、形で練習できている。それが試合につながっていると思っています。誰が出ても同じようなサッカーができるという自信はある」

 私が練習を取材したのは4月4日のただ一回だけであり、それをもって断言することはできないが、少なくともその日は、たしかに選手たちの表情は充実し、笑みが漏れていた。なによりたくさんボールに触り、動きたいという気持ちを抑え切れずに、選手たちは遊ぶように――こう書くと語弊がありそうだが、ふざけているという意味ではなく――ボールに群がっていた。

 大木監督のサッカーは第一に勝つための方法を突き詰めたものではあるが、同時にもう一度観に来たくなる、観る者の心を震わせる質や内容を伴ったものでもある。

 だからこその”プレー”なのだろうか。フットボールプレーヤーはフットボールをプレーすることでのみ、プレーヤーとしての存在を証明できる。試合を殺し時間をつぶす演技ならば、プレーヤーがする必要はない。

 個人的に、大木監督が指揮を執るチームは、すべての試合がまるで決勝戦のような緊迫感と面白さがあると思い、観戦してきた。その理由がどこにあるのかを考え続けてもきたが、たどっていくと大木監督が言う”プレー”にこだわる姿勢に行き着きそうだと、今シーズンの岐阜を追う過程で確信した。

 プレーヤーがボールを追い、ボールを蹴り、いま自分はここにいると懸命にプレーで叫ぶ。その姿が、ただの一試合を、貴重な試合に変えている。そういう気がしてならない。

 この原則に対し、開幕からゴールデンウイークまで、今シーズンの岐阜がどういう表面上の変化を示してきたかについては、また次回に。
(第2回「岐阜スタイルの表出論 expressionism」)