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「出身地・福岡で生きていくことを決断した最大の理由とは?」中倉一志/前編【オレたちのライター道】

会社を辞めました。そして、アビスパの試合はホーム、アウェイ問わず、全試合を取材することに決めたのです。

“ライターの数だけ、それぞれの人生がある”。ライターが魂を込めて執筆する原稿にはそれぞれの個性・生き様が反映されるとも言われている。J論では各ライター陣の半生を振り返りつつ、日頃どんな思いで取材対象者に接して、それを記事に反映しているのか。本人への直撃インタビューを試み、のちに続く後輩たちへのメッセージも聞く前後編のシリーズ企画がスタートした。第5回は『football fukuoka』の中倉一志氏に話を聞いた。

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▼高校選手権の観戦で得た自信

ーー中倉さんがライター業を始めた年はいつでしょうか?

中倉 ライターの真似事のようなものを始めたのが1996年です。もともと一般企業の総合職で働いていましたが、企業勤めの頃は典型的なワーカーホリックでした。例えば営業職の頃は休める日がせいぜい月1日。土・日出勤は当たり前で、休めるとしても締め切りの終わった次の日曜日ぐらいでした。

営業の最前線である所長などを歴任し、30代後半の歳となり、本社に戻って時間ができたなと思った頃にJリーグができました。プレーヤーとしての私は小学校6年生の1年間だけ、授業の前の1時間サッカーをやったぐらいでした。中・高・大とサッカー部がなく、ほかのスポーツに携わっていたものの、スポーツの世界で生きていきたいという夢をずっと抱いてきました。

でも、ある悩みにも近いものを抱えていました。例えば、その一つが自分が見た試合の感想と新聞の論評がなかなか一致しなかったこと。それだけサッカーは難しいんだなと思っていたものです。けれど当時は駒沢公園の近くに住んでいたので、高校選手権を見に行ったときに一つの転機が訪れました。あまりにも早く会場に着き過ぎて、メインスタンドの真ん中に座っていると、会場の設営部隊がやってきて、会場設営が始まりました。そしてそれが終わると、僕が座っていた場所が記者席になりました。「困ったな」と思いつつも、そこから出るに出られず小さくなって隅っこにそのまま座っていると、記者の人たちがやって来て、記者同士で挨拶が始まりました。

「僕は野球番なので、サッカーのことがよく分からないんですよ」(記者A)

「分からなければ何でも聞いてください」(記者B)

「ちなみにサッカーのフォーメーションって、前と後ろ、どちらから数えるんですか?」(記者A)

「それは前からですよ」(記者B)

記者の方たちはそんなやり取りをしていましたが、彼らのやり取りを聞いた私は「あー、僕はこういう人たちの書いた記事を読んでいるのか。それならば見解が一致するわけはないよな。仕方がないな」と思いましたね。

ーーなるほど、大いなる勘違いですね(苦笑)。

中倉 それが分かると、自分が書いた試合の感想をノートに記録するようになり、そうこうしているうちに『Windows95』が出たんです。そして当時は2002年にW杯を日本に招致するための署名を集めるWebサイトを前身とする某Webサイトがあったので、その中のサポーター投稿欄に投稿を送っていると、あまりにもしつこく送ったからでしょうね。Webサイトの担当者の方から、「サポーター投稿欄にあなたのコーナーを作るからそこで投稿を載せます。でもギャラなしですよ」という連絡が来ました。

そして喜んで投稿を送っていたところ、ある日、97年の浦和がホーム100試合記念試合を国立競技場で対戦した試合だったでしょうか、Webサイトの担当者の方から「人手が足りないので、その試合を手伝いに来てほしい」との依頼がありました。その後はWebサイトの運用も手伝ってほしいと依頼を受けたので、夜中と土・日は事務所に行くようになりました。朝会社に出勤して、20時頃まで勤務し、退社後事務所に行って、終電で帰る。そして週末は試合会場で取材。そんな”二足のわらじ”のような生活をしていました。そうこうしているうちに本社勤務から、福岡転勤が決まりました。

 

▼アビスパ福岡のファーストインパクト

ーー福岡に転勤したあとも、Webサイトのお手伝いは続けたのでしょうか?

中倉 運用している人数も少なかったので、福岡のゲームレポートが載っていませんでしたから、「福岡支局」と勝手に名付けて、アビスパのホームゲームはゲームレポートを、アビスパがアウェイのときは福岡のサッカー事情を載せて楽しく活動を続けさせていただきました。

またそうこうしていると、私のレポートを読んでいたある新聞記者の方からご連絡をいただき、その記者の方が連載している、仕事をしながら趣味を極めている人を取り上げる『人生二刀流』というコーナーで取材させてくださいとの依頼を受けました。結局取材を受けましたが、私にとってこの活動は「趣味ではなく、本気」でしたけどね(笑)。そしてまたその記事を読んだテレビ局の方からご連絡をいただき、5分番組の中でコメンテーターをやってほしいとの依頼が舞い込みました。

「サラリーマンだからさすがに顔が出るのはマズイな……」と最初はお断りしようとしていましたが、「名前は出ますけど、音声だけで顔は出ません」という話だったので、お引き受けしました。しかし、見事にオンエアーでは顔が映っていました。完全に騙されましたね(苦笑)。「本社は東京だったのでバレないかな」と思っていましたが、やはりテレビに出ると福岡ではある程度顔も知られるようになりました。

ーー次第に福岡でも中倉さんの認知度が上がっていったと。

中倉 当時、フリーランスの身でアビスパを取材していた人は私ぐらいでしたからね。でも、時間が経つと福岡事務所が閉鎖されることになり、その猶予が1年間だけありました。もちろん、私の活動について部下は知っていましたし、他のメディア仲間も、アビスパも良くしてくれましたから、良い部分だけをつまみ食いして、あとはサヨナラでは人としてはどうかなと。そう思ったので、閉鎖されるまでの1年間は一生懸命取材をして、福岡の人に恩返しができたと実感できれば東京に戻ろうと心に決めました。それが2004年のことでそのシーズンはアビスパの全ゲームを取材しました。部下にもそれを宣言して、水曜日に試合があれば休むから、相談事は火曜日の午前中までと、伝えてありました(笑)。

ーー1年間の取材の成果はどうだったのでしょうか?

中倉 結局、そのシーズンはチームが入れ替え戦で柏レイソルと戦ったものの、J1へ上がれずに終わりました。福岡に来て約5年間お世話になりましたが、とても福岡には恩返しができた、とは思えなかったので、福岡に残って引き続き、地元の方々にアビスパを好きになってもらうための活動を続けようと、会社を辞めました。そして、アビスパの試合はホーム、アウェイ問わず、全試合を取材することに決めたのです。それは今も続けています。

福岡に来た当初はそこまで長く福岡に関わるとは思っていませんでした。福岡は私が生まれた土地ではありましたが、8歳までしかいなかったですし、中・高・大という一番多感な時期は北海道在住だったので、地元は北海道という意識でいました。実際に福岡転勤を通達されても、自分が産まれた土地に行くのか……。それぐらいの感覚でした。

でも不思議な体験をしたんです。99年の3月31日だったと思いますが、福岡空港に降り立った瞬間に「アレ、これって僕の街だよな」という印象を抱きました。福岡は産まれた場所なので、「血は水より濃いのかな」と。初めてアビスパの試合を取材したのは、ナビスコカップのコンサドーレ札幌戦だったと記憶していますが、観衆は4,000人ぐらいしか入っておらず、途中でお客さんは帰るわ、試合はお世辞にも面白いとは言えませんでした。

東京で活動をしている時期は、それこそ優勝争いに絡む試合を取材してきた身から、降格に近いチームの試合を取材していたので、正直最初は「ハー」と思っていましたが、取材しているうちに「アビスパは僕たちのチームだ!」と思うようになりました。理由はアビスパが福岡のチームだったからです。「アビスパのために何かをしないといけないのではないか」。それが取材をしてアビスパに関する記事を書くことだと、なっていった次第です。

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▼Jの現場に広がっている現実

ーー取材をする上でのスタンスはどんなことを意識していますか?

中倉 福岡のスポーツと言えば、ソフトバンクホークスをイメージされると思いますが、決してそれだけではありません。地元にあるクラブを地元の人が応援しなくてどうするという強い気持ちでいます。もちろん、アビスパには将来的にJ1で優勝するようなチームになってほしいです。ただJリーグのもともとの理念ではありませんが、チームの勝敗と同じように大切なことがあります。地域にスポーツクラブがあることでスポーツを核にいろいろな人たちがつながっていくことです。

これはあくまでも個人的な意見ですが、やれ観客動員が減っている、Jリーグのファンの年齢層が上がっている、下部組織から選手が育ってきた。そう言った観点がJリーグでは議論されることが多いのですが、そういう話を聞くにつれ、Jの理念であるスポーツ文化の振興は、実は現場レベルでは、かなり進んでいるのだという現実を分かっているのだろうか。そう歯がゆく思うことがあります。いろいろな街にJクラブがあることで、そこに集う人たちが一つのコミュニティーを形成し、クラブの存在によって関わる人たちの生活が支えられていると思えるようなことは、実はたくさんあります。

僕はサラリーマンをやっていたので分かるのですが、一定の年齢になり、中間管理職の立場に立つと会社の中で途端に孤立し始めます。係長ぐらいまでならば、部下と一緒に呑むことやご飯に行くことはあります。ただあるとき、役職が上がって、向こう側(会社側)の人間になると、女性社員は自分の話を直立不動で聞くようになるし、例えば部下を呑みに誘うと、その瞬間、その場の空気が凍るんです。そうなると、自分たちの世界は取引先の人か、自分より上の役職、部長クラスの人になります。

なんとなくエラくなって、会社で孤立し、仕事と取引先にしかコミュニティーがない……。そういう世界に生きている中でJリーグの現場に来ると、どこそこ会社のお偉いさんという扱いではなく、お互いの年齢をリスペクトをしながら、性別や社会的地位をまったく気にせず、一人の人間として扱ってくれる世界が広がっています。サッカーが好き、アビスパを好きという共通項だけでコミュニティーが成立する。関わる人たちは礼儀をわきまえてくれますし、そういう世界に触れると、ハマっていくファンがいるように、リタイアしてからサッカーファンになる方も多いと思います。

もう何年も付き合っているけど、名前を知らない方もいます。それはもう名前が必要ではないぐらいの世界なんです。そういう様子を見れば見るほど、こういう世界がもっと広がれば良いなと思いますし、そうしたコミュニティーを形成するお手伝いができれば良いなと思っています。それがJの現場だということも、もっと知ってもらいたいですね。地元を出る気もないですし、ライターとして名を馳せようというよりも、福岡にあるスポーツクラブの意義や、クラブの存在があることで生まれているものを伝えていきたい、理解してもらいたい。そういう気持ちが私の仕事をする上での現在のモチベーションです。

(後編「地元で生きるという選択。その覚悟と役割とは?」)

 

【プロフィール】
中倉 一志(なかくら・ひとし)
1957年2月18日生まれ。小学校6年生の時、たまたまつけたテレビに『ダイヤモンドサッカー』が映し出されたのがサッカーとの出会い。長髪で左サイドを疾走するジョージベストに痺れた。座湯の銘は「お天道さまは見ている」。