疑惑の時点で詰んでいた。この空虚な結論は未来への新たなリスクを生む
大島和人によるオブジェクション。解任という判断の根っ子を思う。
▼”怪しいお金の動き”はあったが……
アギーレ監督に”八百長疑惑”が降りかかった段階で、もう話は詰んでいたのかもしれない。
“八百長”という言葉が、かなり混乱した使われ方をしている。厳密には敗退行為、match-fixingと言われるような”わざと負けてやる”行為が八百長だ。これはスポーツの根幹を揺るがす明白な”悪”だ。
アギーレ監督に対する告発が受理されたのは、2011年5月のリーガ・エスパニョーラ最終節「サラゴサ×レバンテUD」戦直前の金銭の動きにまつわる嫌疑だ。既に残留を決めていたレバンテに対して、アギーレ監督率いるサラゴサは負けると2部降格が決まるピンチだった。試合の直前にサラゴサのアガピト・イグレシアス会長から、アギーレ監督ら10名の口座に計85万ユーロが振り込まれ、直後に引き出されていたという報道がなされている。
“相手の監督”に現金を振り込んだのなら、問答無用で完全にアウトだ。また「この試合に負けてくれ」という意味でアギーレ監督に振り込まれたのなら、それもアウトだ。当然ながら辞任に値するし、ことによってはサッカー界から永久追放されるレベルの話である。しかしサラゴサは全力を尽くしてレバンテUDを下している。サラゴサ側が敗退行為を試みた可能性は決して高くない。
引き出された現金が、そのまま相手側に渡ったという疑惑も想定されているらしい。ただそこで監督や選手を介在させた理由について、納得できる説明を聞いたことはまだない。従って”八百長疑惑”という表現は、疑惑がゼロではないにせよ、かなり八百長の定義を拡大した言い方に思える。
一方で、脱税、資金洗浄と絡む”怪しいお金の動き”であるとは確実に言い得る。サラゴサはこの直後に経営破たんを起こしており、イグレシアス会長が債権者に対して財産隠しを行おうとしたというなら、善悪は別にして合理的な行動だろう。
ともかく話の膨らませがいのある疑惑であることは間違いない。当事者が複数いて、事実関係が込み入っているからこそ、そこに主観や妄想の介在する余地が生まれる。アギーレ前監督の有罪証明は高い壁だが、”無実の証明”は同様に難しい。だから疑惑として書き続けることができる。
事件報道においては推定無罪という原則がある。「アギーレ監督が八百長で有罪だ」と報じた新聞、テレビは一つもないはずだ。しかしニュース全文を綿密に拾っている読者、視聴者などいない。「アギーレ 八百長」という見出し、字幕が出ただけで、有罪の心証が生まれる。このコラムの読者の皆さんも、サッカーを知らない人から「アギーレ監督は八百長をしているの?」と聞かれたことがあるのではないか。
今回の事件は遅々として進展しなかったにもかかわらず、スポーツ紙は繰り返し取り上げた。外国人監督という書きやすさ、しがらみのなさもあっただろう。報道が続くことで少しずつ”空気”が醸成される。批判の種類は当然違うが、私には2000年前後の”トルシエ解任報道”が思い出された。ペンは剣より強く、一度スイッチが入ってしまった攻勢はなかなか収まらない。
それは協会にとって、ファンにとって、極めてストレスフルな状態だ。推定無罪を前提とした常識的な意見の中にも「アギーレが自らの弁護活動に追われ、強化に支障が出る」「イメージが下がってスポンサーが減る」というような理由から、アギーレ監督の解任を容認するものがあった。そして2月3日、アギーレ監督の解任が日本サッカー協会から発表された。
▼この解任でリスクが消えるわけではない
しかしこの解任で、日本サッカーのリスクは本当に小さくなったのだろうか? 私はそう思わない。
日本サッカー協会は疑惑に対する打たれ弱さを示した。有罪の証明は困難だが、疑惑の生産は容易だ。そして疑惑から無実の証明を果たすことはさらに困難だ。となれば対抗勢力の足を引っ張るために、”疑惑”を煽るやり方が有効になる。これはサッカーだからという話でなく、とある競技団体で、とある大学の野球部やラグビー部で過去に何度もあった話だ。「ライバルの失態を晒す」というメディアを巻き込んだ一種の”ゲーム”である。
アギーレ監督という”尻尾”を切ったから、批判が静まるということではない。「アギーレ監督を日本に呼んだ技術委員会はどうだ?」「協会の会長や幹部の責任はどうなんだ?」と批判は連鎖していくことになる。もちろん人事は安定していればいい、無能であっても居座ってもいいということでもないのだが、この手の責任追及は不毛な足の引っ張り合いに終わることが多い。目先の”面倒くささ”を避けるために、安直な手を打つと、もっと面倒な事態に巻き込まれる――。私はそれを恐れている。
もうひとつ虚しさを感じるのは、疑惑追及時に発揮される正義感は、一瞬で消えてしまうということだ。例えば大相撲では、2011年に八百長問題が浮上し、実際にその年の春場所が中止された。大関以下19名の力士が引退を強いられる緊急事態だった。しかし存続の危機、改革の重要性が声高に叫ばれた割に、”その後”をフォローする報道は明らかに薄い。15年の大相撲初場所は連日の満員御礼で、人気の回復に成功しているようだが、あれは本当に”改革”の成果なのだろうか?
犯罪を許してはいけないが、犯罪者は赦してもいい。海外のスポーツに詳しい人ならご存じだろうが、有名無名を問わず、警察のお世話になるアスリートは多い。もちろん犯罪や不祥事のレベルはあるだろうが、人は完全無欠な生き物ではない。自分や他人の至らぬ部分を受け止めなければ、社会は進まない。
具体名をいちいち上げないが、日本スポーツ史に名を残るような大選手が、過去に傷害や飲酒運転で逮捕されている。現・侍ジャパン監督である小久保裕紀氏は98年に、脱税で懲役1年(執行猶予2年)、罰金700万円という刑事罰を受けている。プロ野球の名将・野村克也氏も、夫人が脱税容疑で01年に逮捕された。しかし二人のその後の活躍はご存じの通りだ。
「アギーレは八百長だ。話が違う」と仰るなら、そうかもしれない。しかしその八百長というレッテルは、言葉の独り歩きではないのか?
良い悪いは別にして、この国はリセットして時間が経てば、罪や疑惑を忘れてもらえる。あくまでも私個人の考えだが、アギーレ監督の”八百長報道”も、読者や視聴者が飽きた段階で収まったのではないだろうか? 脱税や資金浄化に対する低レベルの関与なら、職を解く必要もなかったのではないだろうか? 日本サッカー協会は報道へ過敏に反応し、スキャンダル耐性の低さを示してしまったように思える。
リスクはゼロにならない。アギーレ監督の解任で、きっとまた新たなリスクが発生している。そういう不安を感じた人事だった。
大島和人
出生は1976年。出身地は神奈川、三重、和歌山、埼玉と諸説あり。ヴァンフォーレ甲府、FC町田ゼルビアを取材しつつ、最大の好物は育成年代。未知の才能を求めてサッカーはもちろん野球、ラグビー、バスケにも毒牙を伸ばしている。著書は未だにないが、そのうち出すはず。