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Jリーグ試合出場「1」で引退…出番を待ち続けた元Jリーガー・三浦雄也の葛藤【サッカー、ときどきごはん】

プロになるのも諦めかけた
プロになってからもずっと出番はなかった
そしてある日とうとうそのときがやってくる
試合の後は母がメールをくれた

名門大学で主将を務めたのだから
輝かしい未来が待っているように見える
しかし彼は「1」という記録を刻んだだけで去った
三浦雄也に半生とオススメのレストランを聞いた

 

■待ち続けた出番は唐突にやってきた

V・ファーレン長崎の2年目になった2016年にそのときが来ました。

シーズン最初に第2GKだった植草裕樹さんがケガをしたんですよ。それで第3GKだった僕がベンチに入ることになりました。それから少しずつ僕の評価も上がったようで全試合ベンチに入れてもらえました。

そして7月3日の第21節、アウェイの徳島ヴォルティス戦ですね。前半の21分に先発GKの大久保択生さんがゴール前で相手選手と交錯したんです。頭が切れて出血がひどくて、グローブも血だらけになっちゃって。

すぐ「準備しておけ」と言われてたんですけど、僕は最初大久保さんがまだプレーできるだろうと思ってました。すぐ起き上がってたし、たぶんちょっと切れただけなんだろうなって。でも血が止まらなかったみたいでドクターストップがかかって、「三浦、行け」って。

ウォーミングアップはしてたんですけど、それでも準備し始めてすぐ出場という感じでした。そのときスタッフの人たちも、僕がJリーグ初出場と分かってるんで、「大丈夫か?」って。みんな焦ってたと思うし、心配だったと思います。高木琢也監督やヘッドコーチ、GKコーチは結構そわそわしてましたから。そしてみんなどうにかして僕のアップの時間を作ろうとして、審判にああだこうだ言ったりして時間稼ぎをしてくれてました。

ただ、前半もまだ早い時間だったんで試合前のウォーミングもあったから僕自身はすぐ温まりました。それに2015年の天皇杯に出場させてもらってたんで、僕はスッと試合に入れたと思います。緊張はちょっとしてたんですけど、ピッチ立っちゃえば、もうあとは今まで練習でやってきたことをやるだけだと思って。やることだけに集中しようと、そこから先はほぼ緊張してなかったですね。

ちょっと下がスリッピーだったんですけど、それはあまり気にならなかったかな。キャプテンの高杉亮太さんがよくコミュニケーションを取ってくれました。村上佑介さん、佐藤洸一さん、梶川諒太さんも何とかほぐしてくれようとしてて。それに対して僕は「意外と緊張してないっす」なんて答えてましたね。

結局試合は0-0です。勝てはしなかったですけど、失点もしませんでした。相手のシュートが7本で、こっちのゴール前まで何回か来ましたね。確か2回ぐらい結構危ないシーンがあったんです。左利きのアレックスが65分から出てきて、かなりキレキレで。ちょっと流れが変わったと思って怖かった記憶があります。

やっぱりデビュー戦ですからいろいろ覚えてますよ。試合が終わって「やっと、やっとこれで一歩踏み出せたな」って思いました。結果を求められる選手として、やっと一つ残せたなとしみじみ思いました。

プロ5年目の初出場です。だいたいGKは最初の一歩を踏み出すまでに長いですけど。家族はメールをくれました。母から「おめでとう」って。やっぱり喜んでくれました。スクランブル出場だったところは、ちょっと不本意ではあったんですけど、それでもやっぱりうれしかったですよ。大久保さんには申し訳なかったですけど。

でもそこからチャンスは掴みきれませんでした。次の試合も僕だろうと思ってたし、みんなもそう思ってたみたいなんですけど、大久保さんは脳しんとうじゃなかったし、腫れも酷くなくて、本人も「大丈夫」と言ってたんで。監督としたらやっぱり経験のあるGKを使いたいだろうなって。大量失点しない限りGKは変えないですよ。

 

■ギリギリでのプロ入りと0円提示

筑波大学時代はキャプテンでした。2011年ですね。当時の部員数は150人から160人ぐらいだったと思うんですけど、今はもっと多いでしょう。部員が多いんで、全部で7、8チームに分かれて活動してるんですよ。だから後輩と言っても接点がない人たちもたくさんいましたね。

キャプテンだからといって僕がなにかしなきゃいけないなんてこともなくて。志が高い集団だったのでみんなが勝手に自走していく感じですよ。何かあったときだけ僕が出て行くんです。代表して先生に怒られたりとか。でも僕がなんかまとめ上げたという気持ちは正直ないです。キャプテンに選ばれたのは……人望があったからだったらいいんですけどね。

周りにはプロになった選手が何人かいました。同期だと、まだ現役を続けてる八反田康平(清水エスパルス・ベガルタ仙台・大分トリニータ・名古屋グランパス・鹿児島ユナイテッド・ジェイリースFC)、割と早めに引退した石神幸征(水戸ホーリーホック・ガイナーレ鳥取)ですね。石神は今茨城県で警察やってますよ。それで水戸のホームゲームの警察ブースによく立ってるみたいです。

プロを目指しているのは上の世代も下の世代もいて、谷口彰悟(アル・ラーヤン/カタール)は2つ下でしたね。彼が1年生のときに僕が3年生で、入ってきたときからセンターバックとして頼りがいがありました。彰悟は堂々としててうまかったですね。

当然自分もプロになりたいとは思ってたんですけど、なかなか進路が決まらなくて。大学4年生の12月にあるインカレに出て、1回戦で地元にある中京大学と対戦したんです。自分としては運命的なものを感じながらプレーしたんですけど、負けてしまって全国大会というアピールの場も失ってしまいました。

スカウトの人とは何人か知り合いになりました。けれど「獲得したい」という話までは行かなくて。それで1月になったら通常は引退しますが、まだ進路が決まってないのが僕ともう1人いて、2人で後輩たちの練習に入れてもらってました。

そうしたら2012年1月下旬にJ2のクラブからキャンプに呼んでもらえたんです。静岡県清水市にあるJステップに行って、そこで評価してもらえて宮崎県都城市での2次キャンプにも行きましたね。そこで5日間一緒にプレーして、そこも全部こなしました。

プレーには手応えがあったし、いい感触もあったんですよ。これでやっとJクラブに入れると思ってたんですけど、筑波に帰った後に電話がかかってきて「やっぱりごめん」と言われて契約に至りませんでした。結構落胆しましたね。正直、その電話の直後は薄暗い部屋の中でひとり泣いてました。

しばらく立ち直れなくて「もうサッカー辞めなきゃいけないのかな」といろいろ考えました。「ここから就職浪人して、もう1回就職活動をしなきゃいけない」とか。3年生のとき、一般企業向けのエントリーシートを書く練習はしてたんです。でも、プロになる気満々だったんで、あんまり熱心にはやってませんでしたね。

その2012年は、3月3日に富士ゼロックススーパーカップがあって、3月4日にJ2リーグ、3月10日にJ1リーグが開幕したんです。そうしたら3月の頭にJ1のサガン鳥栖から練習参加の機会をもらったんですよ。GKがケガをして人数が足りないからって誘ってもらって。

尹晶煥監督で、その前の年に引退した金明輝さん(現・FC町田ゼルビアヘッドコーチ)もいたんじゃないですかね。たぶん覚えていらっしゃらないでしょうけど。あのときの鳥栖のGKは赤星拓さん、室拓哉さん、奥田達朗さんで、たしか室さんがケガしてたんです。奥田さんとはのちにV・ファーレン長崎でチームメイトになりました。

そのときは正直手応えがなかったですね。練習パートナーという感じで。それでもう心の整理がついていたというか、ほぼ諦め半分という感じで、家に帰ってからは落ち着いてました。

そうしてたら大学の先輩が話をつなげてくださって、滋賀県の日本フットボールリーグ(JFL)を目指しているチームから声をかけてもらったんです。「社会人の選手としてやってみないか?」って。クラブのスクールコーチとして働きながらプレーできるというお話でした。

すごく熱心に誘っていただいたんですよ。わざわざ地元の名古屋まで足を運んでいただいたりしたので、自分の気持ちとしてはそこにお世話になろうとほぼ気持ちが固まってました。

そしていよいよ大学の卒業式という直前に、急に柏レイソルから練習参加のお話しをいただいたんです。そのときの柏には菅野孝憲さん、稲田康志さん、桐畑和繁さん、川浪吾郎さんがいらしたんですけど、桐畑さんが長期離脱ということになったので、ちょっと来てくれって。

 

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