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長い下積みと歴史的瞬間…似東純也はなぜ伊東純也のモノマネをすると決めたのか?【サッカー、ときどきごはん】

 

あるとき急にSNS上で話しかけられた
「伊東純也選手のことを何でもいいので情報ください」
さらにメッセージも寄せられた
「やるからには本気で。をモットーにやらせていただいてる」

チケットがなくてもスタジアムに行っている
どんな細かな情報も漏らすことなく集めて芸に生かす
そんな苦労を感じさせずに人々を笑わせる
伊東純也のモノマネ芸人「似東純也」に半生とオススメの食堂を聞いた

 

■陸上をやってたので走り方を似せるのは得意だった

伊東純也選手のモノマネを始めたのは、カタールワールドカップのアジア最終予選からです。

日本は最初の3戦で2敗して、4戦目でホームのオーストラリア戦に勝ってから反撃が始まるんですけど、もう1敗もできない戦いの中で、伊東選手はアウェイのベトナム戦、オマーン戦、ホームの中国戦、サウジアラビア戦と4試合連続でゴールを取ったんですね。しかもベトナム戦、オマーン戦はどちらも1-0と伊東選手の得点が決勝点になって。

実はその前から仲間たちに「伊東選手に似てない?」って言われてたんです。真正面の静止画は似てないかもしれないけど、雰囲気とか、プレーしてるときの顔とかはかなり近いんじゃないかって。

それで自分でも伊東選手のことを意識してたんですけど、日本をワールドカップに連れて行く活躍をしてるのを見て、「もうこれはモノマネやるしかない」って、中国戦の前にユニフォームを買いにいって、Twitterのアカウントもその日に作って。

伊東選手ぐらい有名になるとモノマネをする人はたくさん出てくるじゃないですか。僕より先にやってた人もいたんですよ。「九州男子”下地孝明」さんがそうで、モノマネ業界からしたら、もし他の人がやってるとちょっと躊躇するんです。もちろん同じ人をやっちゃダメというのはなくて、本田圭佑選手のモノマネをやってる人は何人もいるんですけどね。

僕は最初、下地さんがやってるのを全然知らなくて、始めて1、2カ月後ぐらいに「あれ?」みたいな。それでたまたま一緒の公演に出ることになったとき、下地さんから「仲良くやって、一緒に頑張ってきましょう」みたいに言っていただいたんでホッとしました。

それで顔とか走り方とか見て真似てたんですけど、実は僕、陸上をやってたんで、人の走り方を真似ることが得意なんです。なので、伊東選手がどうやって走ってるかをめちゃくちゃ研究して、「あ、こうやって走ってんだな」って。

 

 

 

コツはちょっと猫背と、手をあんまり大きく振らないということですね。伊東選手って結構手がちょこちょこ動くんですよ。手を伸ばしたまま、前後にちょっと動かすぐらいな感じなんですね。

陸上をやってた人間からすると、「よくあれで速いな」っていう部分はあります。とにかく不思議なんです。まず力学的に見たら動きがおかしいですからね。ちょっと専門的な話なんですけど、足首が硬いと着地したときに強い反発を受けて速く走れるんですよ。足首が柔らかいと吸収しちゃって速く走れないんです。

でも、足首が柔らかくないとボールコントロールが固くなりますよね。それに思い切り足首をひねったりしても、プレーを続けてるじゃないですか。あれも足首が柔らかくないとダメだし。だから結局謎です。多分ご本人に聞いたところで「分かんない」って言うと思いますよ。

 

■モノマネを始めたらすべてが繋がってきた

僕は小さいころから人を笑わせるのが好きでしたね。中学校の時から文化祭で人前に出て何かやるみたいな、その学校で自分は面白いと思ってるヤツらの1人で、目立ちたがりだったと思います。ただ、それ以外に陸上の長距離が得意で、高校と大学はスポーツの推薦で入れたんです。

大学は神奈川大学で、伊東選手と一緒なんですけど、僕は陸上競技部駅伝チームにいました。駅伝は4年間やって、箱根駅伝は走れなかったんですけど、もし走れてたらアンカーだったかもしれません。

記録としては5000メートルが14分台で、1万メートルが29分台ですね。そのときの学生記録が1万メートル28分30秒で、トップレベルから言えば1分以上遅いんですけど、神奈川大学の駅伝部に入れるのが年に11人しかいないんで、一応それには選ばれました。

大学3年生になったとき、卒業した後のことをいろいろ考えたんですよ。実業団からの話しもあったんですけど、ケガもしてたし、4年生までに箱根を走れないだろうということは何となく分かっていて。そうしたらこの先の目標はオリンピックに出ることぐらいになるんですけど、さすがにそこまでは無理だろうと思って。

中学1年生で陸上を始めて大学4年生までやるとちょうど10年だし、ここで一区切りにして終わるのもありかと思って、次にやることを考えたんです。そのときに人前に出ることが好きだったのを思い出したんですよね。

それで陸上部の大後栄治監督のところに行って「僕は実業団には行かないで、役者になります」って言ったんです。神奈川大学の陸上部から芸能の道に行った人はいなくて、前代未聞のことなんで友達もみんなビックリしてました。

監督にはてっきり「何言ってるんだ」と言われるかと思ってたんですけど、すぐに「芸能界の知り合いを紹介する」と言ってもらえて。「安定した道を行け」と言うんじゃなくて、「そっちをやりたいんだったら、ちゃんとやれ」みたいな感じで送り出してくれて、やっぱりすごい人なんだと思いました。

それで最初ちょっと役者をやってました。けれど「M-1グランプリ」を見て、人を笑わせるのはなんてすごいんだろうと思って、「ワタナベエンターテインメント」のワタナベコメディスクールに入ったんです。

スクールでは初めてそういう世界に入ったっていうのもあって、右も左も分からないで卒業までの1年間過ごしちゃったという感じでした。なんかあっという間に終わっちゃいましたね。1年ぐらい経って、世の中のことが見えてきたころに卒業なんです。

そのころに気付いたのが、同期の中には「吉本興業」のNSC吉本総合芸能学院や「人力舎」のスクールJCA出身で、もうプロだったりセミプロだったりという実力のある人たちがいたんです。あとで知ったら芸歴10年近い人もいました。

その人たちはスクールライブでずっと上位なんです。ネタもしっかり作れるし。「なんであいつら面白いんだろう」「みんなスタートライン一緒のはずなのに、なんであいつらだけあんなネタ作れんだろう」ってずっと不思議に思ってたんですよ。

他の養成所でうまくいかなくて事務所に所属できなかった人たちが、比較的歴史の浅かったワタナベのスクールに来てたんです。そしてスクールの上位に入れば、そのまま自動的にワタナベエンターテインメントに所属できるんですよね。

その人たちはそういう業界のシステムを知ってたんです。けれど、僕は1年経ってようやく気づいたころには卒業みたいな。それでも「卒業ライブで5位以内に入れば事務所に入れてあげる」って言われてたんです。そうしたら何とか5位に入ることが出来ました。

ところがちょうど女性の芸人さんがブームになってきてて、事務所は女性のほうを取ることになったんです。それで僕よりも順位が下の人が合格になって僕は落ちたんですよ。事務所に所属できなかったから給料は出ないんですけど、事務所主催のライブには参加させてもらえるんです。

「ステップ・ステップ・ステップ・ライブ」って言うんですけど、これが日本のサッカーで例えるとJFLみたいなものなんです。JFLも1部から3部まであって、下から上がっていってJFL1部で5回1位を取ったらJ3に上がれて事務所に雇ってもらえるっていうピラミッド構造です。

そのライブが月に1回ですから、最低でも5カ月経たないとJ3には上がれなくて、しかもそんなに1位って取れないです。だからアルバイトしながら、その当時の相棒とよく下北沢とか中野の小劇場でやってるアンダーグラウンドの「草ライブ」に出まくってネタを磨いてました。ただ、あまりに結果が出なくて結局コンビは解散しちゃったんです。

そうしたら同期で「天才」と言われてたヤツもちょうどコンビを解散してたんです。僕はそいつと仲がよくて家に入り浸って遊んでたんで、「じゃあ組んじゃおうか」って、もう1人入れてトリオになってやりはじめたんですよ。

それが結構うまいこといって。ネタってその人に合う話を書けるかどうかなんです。その「天才」は仲良かったんで、僕のことをすごくよく分かってて、ちゃんと僕がウケるように作ってくれました。5月ぐらいにトリオを組んだんですけど、6月の「キング・オブ・コント」1回戦を突破して、結局無所属のまま準々決勝まで行きました。

それで「ステップ・ステップ・ステップ・ライブ」に出ました。朝9時のJFL3部のライブで1位になったら、その日の15時からのJFL2部のライブに出られて、そこで1位になったら19時からのJFL1部のライブにも出られるんです。

1日で3部、2部、1部の1位を取るのは「ストレート」って言うんですけど、僕たちは見事に「ストレート」になったんです。実はそれまで「ストレート」を達成したら、そのまま事務所に雇ってもらえてたんですよ。

僕たちが「ストレート」を達成しそうになったとき、なんか結構ざわついてて、これはワタナベエンターテインメント所属になれる、と思ってたんです。でもなぜか分からなかったんですけど、「やっぱり5回優勝して」ってことになって。

さすがにガッカリしましたね。それでも手応えは相当あったし、他の事務所の人たちと話をしても評価してもらえてたんで、プロデビューも近いと思ってました。「エンタの神様」のオーディションにも通ったりしてたし。ところがそのころ急にテレビで「若手のネタ見せ番組」がなくなってしまったんです。お笑いの氷河期ですよ。

そのころ、ある事務所に所属させてもらってはいたんですけど、「仮所属」みたいな、いつ契約切られてもおかしくないっていう世界でした。そのうち、その「天才」が耐えられなくなって、「結婚するんで辞める」ってことになって。それ、僕には止められないじゃないですか。彼の人生だし。

それでも残った2人で毎月10本ぐらい舞台に立ってました。「これでやっていくしかないよね」って。もしかしたらYouTubeがハネるかもしれないと思って、YouTubeのかなり初期の段階で始めたりもしたんです。

だけどそのころは「芸人のくせに、なにYouTubeやってんだ」みたいな雰囲気があったんです。今はもうそんなの逆転してて、芸人がみんなYouTubeやってるんですけど、その当時は「芸人なんだから舞台立て」という、ストロングスタイルというか、「舞台立ってないヤツは芸人じゃない」みたいな世界だったので、舞台もやりつつ、ちょっとYouTubeの活動もやりつつでしたね。

で、結局YouTubeもハネないんです。全然儲かんないですね。だからお笑いやってるとずっとバイトすることになるんです。芸人は大体バイト先の店長代理みたいなとこまでいきますからね。同期の芸人はほとんどそうなってます。

バイト先って、まず「まかない」があることと、それから時間に融通が利くところに入るんですよ。働きながらライブに出てるんで。僕は恵比寿のもつ鍋屋さんの「黄金屋」さんっていうところで、オープニングから店がなくなるまで働いてて、最後は店長みたいになってました。

お笑い芸人の下積みは長いですね。だけど夢はありますからね。僕の場合、いろんな活動をしてたらモノマネでちょっと仕事ができるようになってきて、今に至るという感じです。

今は舞台やイベント出演以外の活動としては伊東選手を応援しようという意味で、DAZNでスタッド・ランスの試合を見ながらインスタライブやってます。それでカタールワールドカップが終わった2022年12月15日に、「伊東純也選手が覗きに来るまで終われないインスタライブ」というのをやったんです。正直に言うと、ちょうど選手としてはオフの時期だからヒマかもしれないって、本当にちょっとだけ狙ってたんですよ。

 

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