J論 by タグマ!

東京23区初のJクラブを目指して…森岡隆三はなぜ清水を離れクリアソン新宿に加入したのか【サッカー、ときどきごはん】

監督を務めていたころに会ったときは
現役時代に比べるととても穏やかになり
どんなに批判を浴びても必ず選手を庇う
監督という仕事に誇りと喜びを感じているのが伝わってきた

だがJクラブの監督を辞めた後
まだチームを率いたという話は伝わってこない
彼は指導者として何を考え次はどこに向かおうと思ったのか
森岡隆三に現役後の話とオススメのレストランを聞いた

 

■経営者目線が必要と痛感したガイナーレ時代

2008年に現役を引退して、2009年から京都サンガのコーチになり、2015年と2016年はサンガのユースの監督を務めて、2017年と2018年の途中までガイナーレ鳥取の監督をやりました。やっぱり指導者という仕事は……楽しいですよ。もちろん。

選手を辞めることになった数日後に、みんなが練習しているピッチで「今日からこっち」と言われてスタッフのジャージを着たのが最初の一歩でした。30人ぐらいの選手と向き合う少人数のスタッフの側にいることに「数日前まで逆サイドにいたなぁ」と思いつつ、景色が変わった面白さも感じていました。

物理的な立ち位置もそうだけど、選手のことが想像以上に見えるんです。すごく集中して聞いている選手もいれば、軽く隠れている選手がいて。子供の頃に初めて小学校の体育館の壇上に立ったときに近い感じで、「こんなふうに見えるんだ」というのや、目の前の人たちの心模様が見える感じで面白かったですね。

コーチとして多くの方にすごく刺激をいただきました。自分の中では、やっぱり大木武監督の下で一緒にやらせてもらった3年間が特に楽しかったですね。圧倒的にサッカー漬けになった日々でした。

小さいころからずっとサッカーをやり込んできたと思っていましたが、選手と指導者は別物でした。サッカーを探求するという上では同じでも、サッカーの見方、向き合い方がまるで別になるというか。「自分」ではなく「チーム」「選手」が主語になるんです。「どうやったら選手に少しでも刺激を入れられるか、成長させられるか」という選手に対するアプローチや伝え方などずっと学んでいましたね。

プロの指導者というのはまさにサッカー小僧の集まりでした。大木さん、ヘッドコーチの高木理己(現・長野パルセイロ監督)、GKコーチのアダウトとサッカーの話をするのは本当に面白かったんですよ。

僕は主に「リメイン(試合のメンバーに帯同しない選手)」の選手、若手のトレーニングを見ていましたが、特に理己とは、朝4時ぐらいにキックオフのラ・リーガやビッグマッチをクラブハウスに集合して一緒に見て興奮し、そのままグラウンドで指導するなんてこともあって、いい刺激をもらいました。そして見た試合を編集し、「選手の課題」に合わせてビデオミーティングなんかもよくやっていました。

サッカー漬け、指導漬けの生活だったからか、夢の中で「うわ! いい練習思いついた!」なんてことが結構ありました。起きたら「うわ、思い出せない?」ってこともありましたけど。

S級コーチライセンスの講習会に行ったときは、同じ受講生にパリ五輪監督の大岩剛くんがいたりしました。あのときはサッカー談議も素晴らしく刺激的でしたが、自分が好きだったのは座学の講習でした。

チームビルディング研修の中で特に面白かった講習の一つに、講師が5人の人物像を話し、それを聞いた受講生20人が登場人物を「悪いヤツから順番に並べる」という講義がありました。

「こんなはっきりした話だったら、みんなで3、4通りぐらいだろう」と思っていたんですよ。ところが、ふたを開けて見ると講習を受けている20人の中で16通りのパターンが出ました。

つまり20人に話をしても16通りの受け取り方があるということです。これは実際の指導の現場でも同じことが起こりうるということですよ。指導者になって「なんでこんなに言っても分かんないんだろう」と思ったことがあったんですけど、この講習を受けてから「20人の選手に話をするとしたら少なくとも16通りぐらいの受け止め方がある」という前提で話をするようになりました。

となると当然心構え、準備が変わってくるんです。そして指導にゆとりが持てるようになった気がしますね。そして改めて「伝え方」というのは重要であり、磨かなければと思いました。

2019年から清水エスパルスのアカデミーに入り、2020年からヘッドオブコーチングとしての役割を担うこととなりました。ところが2020年には新型コロナウイルスの蔓延により、みんなで集まれなくなる時期が数週間あったんです。

それでもオフザピッチでやれることは何かを考えて行うようにしました。デジタルツールを利用して、選手にはビデオで課題を出したり、スタッフには伝える力「デリバリースキル、シナリオスキル、プレゼンス」を向上させる目的で、オンラインプレゼン会を行ったりもしました。

ちょっとした身振りや仕草、声のトーン、間の作り方とか、そういうものがどう見ている方に影響を与えるかという直接的な相手への伝わり方であったり、伝えたいこと、シナリオ作りで論理的な思考を養ったり。プレゼンスや雰囲気についても考える時間となりました。シナリオスキル、デリバリースキルに比べてプレゼンスというのは一朝一夕で身につくものではないとは思いますけど、指導者として成長を目指すなら全て大事な要素と思いますし、いい学びの機会になったと思います。

S級コーチライセンスの研修ではもう一つ、すごく刺激的だったのが「ディベート」でした。たとえば最初は「2014年ブラジルワールドカップでのアルベルト・ザッケローニ監督の采配は是か非か」というテーマについて、「是」と「非」の立場に分かれて論争をしたんです。5人チームで話をまとめた後、立論をする人や最終弁論をする人など役割があり、当時リアルタイムで行われていたワールドカップだったのでめちゃくちゃ盛り上がりました。

本も昔はフィクションを読むことが多かったのですが、いろいろなジャンルを読むようになりました。孫子のような中国の偉人たちの本や、宮本武蔵の「五輪書」など、個と組織の在り方などのヒントになるようなものも読むようになっていきましたね。

時代は変わっても、人は昔も今も変わらないものだなぁと。現代からもはるか昔からもいくらでも学べるし、勉強になることだらけ。そんな毎日でしたね。ずっと楽しくてしょうがないというか。

S級コーチライセンスを取得したのは2015年です。「どのカテゴリーでもいいから監督をやりたい」と思っていたのですが、京都のユースの監督をやらせてもらえることになりました。その当時、京都のアカデミーでは言語化され対外的に発信されているフィロソフィーはまだありませんでした。

だからフィロソフィーというか、「文化づくり」から始めたいと思いました。自分の中ではやりたいチーム作りは明確で、自分の現役時代、清水でオズワルド・アルディレス監督やスティーブ・ペリマン監督がやっていた、「ボール動かしながら、技術と駆け引き、テクニックとインテリジェンスに溢れるサッカー」を構築して、その中で何より選手の個性を伸ばしてあげたかったんです。そしてシステムも在籍する選手たちが生きるような形でやりたいと思っていました。

オジー(アルディレス)とスティーブが作った空気作りを自分なりに紐解いて、さらに大木監督と一緒にやらせていただいたことで教育的な部分も取り入れました。チームとして、プレーだけではなくて振る舞いも含めた「いい」「悪い」の基準作りをして、オンザピッチ、オフザピッチにおいて働きかけました。

京都ユースチームの監督としての仕事は、うまくいくことばかりではありませんでしたが、若い育成世代の選手の成長に向け関わりを持てたことは、とてもやりがいのあるものでした。2年間の監督業を終えた頃、いくつかのクラブからコーチの打診があり、その中の一つが魅力的なクラブだったこともあって心はほぼ決まりかけました。

ところがその返事の期限だった日、そろそろ返事をしようかと思っていた矢先に、ガイナーレの強化部から監督のオファーの電話をいただいたんです。「鳥取にサッカー文化を」という話を受け、「厳しい環境かもしれないけど、こういう経験は若いうちじゃないとできないぞ」と思い、ガイナーレの監督を引き受けました。

ガイナーレでは確かに苦しいこともありました。勝てないのももちろん苦しかったんですけど、選手の編成とコンディション調整が本当に大変でした。

たとえば2017年は開幕から5試合で2勝2分1敗、2018年も最初の5節は4勝1分で負けなしでした。2017年は自分たちでボールを動かしポゼッションしながら能動的にゴールを目指す、ボールを奪われたら素早く切り替え高い位置でボールを回収しさらにゴールに迫るという、主導権を握る理想のスタイルでスタートしたのがうまくいったと思います。

しかしゴールデンウイークを迎えるころぐらいから勝利から遠ざかることとなってしまったんです。その要因の一つは「疲労」だったと思います。

当時はホームゲームであっても、試合当日にバスでスタジアムに移動していたのですが、集合場所までの時間も入れるとドアツードアで片道2時間半ほどかかっていたと思います。アウェイも基本はバス移動だったため片道12時間を超えることもありました。

シーズンの経過とともに、心も体も疲弊の色が濃くなっていくのが見て取れましたし、実際、自分自身も難しさを感じ続けていました。ただそういう中でも選手は本当に前向きに練習に取り組んでくれていたんです。

そうやって前向きに取り組んでいる選手たちがミスをしたときに、安易にダメ出しなんかできないですよね。むしろミスをするような環境にしてしまっている自分たちに問題があるんだという気持ちでした。

2年目の2018年、クラブにはホームゲームでも前泊させてもらえるよう、そして長距離のアウェイ移動は原則として列車の移動にしてほしいとお願いをし、受け入れてもらいました。そして少しでも選手のコンディションを整えるべく、練習後の食事を提供してもらえることにもなりました。

それでもタフな環境だというのは間違いなかったと思います。はたしてその厳しい中でやれるかを見極めようと、2017年末には米子で翌年に向けたトップチームのセレクションを1週間行いました。

日によっては吹雪が舞う中での選考となりましたが、本当にみんな熱心に取り組んでくれて、2018年のメンバーが決まっていったという背景もありました。そして、2018年、Jのクラブとしてはかなり少ない人数でのスタートとなりました。それでも練習の工夫、ユースとの連携も含めてなんとかやれたところがあります。

横浜で生まれ育って、鹿島アントラーズに入って、そこから清水に行って、京都でもプレーさせてもらって、なんだかんだずっとサッカー文化があるのが当たり前、幸せな環境にいたんだと思います。でもあの当時の鳥取は、まだそこまでではなかったですね。

コーチが1人、GKコーチが1人、トレーナーが1人、自分を合わせてスタッフは4人でした。でも、それでも面白かったですよ。なんでも自分でやったことで多くの経験が出来ました。朝6時から雪かきなんてやったことなかったですもんね(笑)。そしてその中で自分たちがやっていることをどう知ってもらうか、いかに応援されるチームになるか、そんなことをいつも考えていました。

もちろん勝つことが最大の魅力、発信力となりますが、試合を見に来てくれる人に何をどう応援してもらうか、すごく考えるようになりました。1年目は途中から練習メニューを全部公開しましたし、試合の振り返りや、次節に向けてのゲームプランも発信していきました。

選手やチームの成長過程をサポーターのみなさんと共有したかったんですよ。そしてその選手のチャレンジを知ってもらって、見ている方々にも成長のストーリーを見守ってほしい、そして共にいいチームづくりに参加してほしかったんです。そういうものの積み重ねで文化ができていくだろうと思っていました。

結果として2018年はシーズン途中の10節終了後に解任となりましたが、スタッフにも苦労をかけたぶん、シーズン途中で辞めることになったのは本当に残念でした。

監督を務めていたとき、クラブの意思決定ができる人と経営者目線での話ができなければいけないと感じましたね。地域や社会も見て、クラブの経営者やパートナーとも話ができるくらいでいないと、クラブの未来に向けた建設的な話は出来ないと痛感したんです。

そして「何をもって監督が評価されるのか」ということも考えていました。評価が勝ち負けだけではおかしいと思ったんです。もちろんプロフェッショナルのコンペティションを行なっているのですから、勝つことはとても重要です。けれどクラブによって勝利の価値は絶対的に違うはずです。

イギリス・プレミアリーグの上位のチームだったら、間違いなく勝利が義務付けられていると思います。ビッグマネーが常に動いているからこそ、勝つことで価値を証明し、多くの人に感動を与え、さらなる価値に繋げなければいけない。

一方で、苦しい財務状況の中で工夫しながら何とか勝利を挙げたチームの一勝は、もっと高く評価されていいのではないでしょうか、またクラブとパートナー企業の関係性も、勝つから企業が応援するというだけではなく、もっと別の形もあっていいでしょうね。

クラブはパートナー企業との関係性をもっと試行錯誤していく必要があると思うんですよ。勝てないことでパートナー企業がそのクラブから離れるような関係性しか結べてないとしたら、それは寂しいことだと思います。クラブとパートナー企業とでもっと何か一緒にやってこうという関係が大事ではないかと思います。

 

 

■エスパルスを離れる苦渋の決断

実は、京都から鳥取に行く直前に高校の後輩に呼び出されました。高校のOB会チームの初蹴りで挨拶されて以来、親交のあった人物からでした。朝早くに待ち合わせ場所に行くと、カバンから資料とパソコンをバンと出して「本当に行くんですか?」と、クラブの財務状態から地理的環境まで全部調べて、ものすごい熱意で引き止めに来たんです。わざわざ東京から京都までやって来て。

「苦い思いをするんだったらある程度若くないとできないと思っている」と決心を伝えました。でも会話をしながら「これは自分よりもはるかに大人で世間を知っている」と思うと同時に、とてもありがたく、そしてうれしかったのを覚えています。

ガイナーレの監督を辞めた2018年、クリアソン新宿がアドバイザーというオファーを出してくれました。実は株式会社クリアソンの丸山和大代表取締役社長CEOは、鳥取に行く前に引き止めようと説得しにきた高校の後輩なんです。そんな経緯もあって、話をいただき二つ返事でクリアソンにジョインさせていただきました。そしてクリアソンのアドバイザーに就任していた期間にいろんな企業を回っていたんですが、これが面白かったんです。

 

※この続きは「森マガ」へ登録すると読むことができます。続きはコチラ