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浦和レッズに激震走る。2011シーズン途中以来の緊急登板。J1残留を果たした”第一次堀孝史政権”の全容とは?

当時はいかにして唯一無二の目標達成を達成したのか。

7月30日、直近の公式戦であるJ1第19節・コンサドーレ札幌戦に0-2で敗れた浦和レッズは、ミハイロ・ペトロヴィッチ監督との契約解除を発表。後任として、ヘッドコーチだった堀孝史氏の監督就任を決めた。2011シーズン途中以来の監督就任となる堀氏は、かつて降格危機だった浦和を残留に導いているが、当時はいかにして唯一無二の目標達成を達成したのか。”第一次堀孝史政権”の軌跡を炎のレッズウォッチャー・河野正氏がレポートする。

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▼至上命令はJ2降格回避

 「昨日話が来て、単刀直入に(トップチームの)監督をやってくれないかと打診された。誰かがやらないといけない状況ですし、重圧はあるが絶対に残留するという気持ちでやるだけ。(橋本光夫)社長からは『目標は残留、それだけ頼む』と言われました」

 シーズンも佳境を迎えた2011年10月19日、クラブは浦和レッズユースの堀孝史監督にトップチームで指揮を執ってほしいと願い出た。

 同15日、浦和は埼玉スタジアムで行われた大宮アルディージャとの『さいたまダービー』に0-1で敗れ、J2降格圏の16位に後退。そうしてこの5日後、クラブOBであるゼリコ・ペトロヴィッチ監督の解任と堀監督の就任が発表された。

 ヤマザキナビスコカップ(現・ルヴァンカップ)で決勝進出を決めているほか、天皇杯全日本選手権も3回戦を控えていたが、それより何より00年以来2度目のJ2陥落をまぬがれることが堀監督の最重要ミッション。リーグ戦は残り5試合で、就任要請に応じてから第30節・横浜F・マリノス戦までわずか2日の準備期間しかなかった。

 往時の浦和は、ユースから昇格した才気煥発な若手が次々とメンバー入りしていた。20歳の原口元気(現・ヘルタ・ベルリン)をはじめ、1学年上の山田直輝(現・湘南ベルマーレ)、高橋峻希(現・ヴィッセル神戸)、濱田水輝(現・アビスパ福岡)に19歳の岡本拓也(現・湘南)……。いずれもユース時代の堀監督の教え子である。「お互い理解し合えているのは良いことだし、自分がどんな指導者なのかをほかの選手に伝えてくれるのもありがたい」と緊急登板とはいえ、こんなアドバンテージもあった。

▼まな弟子たちの指揮官評

 堀監督について聞かれた山田直が「お兄さんみたいな存在」と言えば、高橋も「本当に信頼できる指導者です」と話し、練習を離れれば監督と選手の関係というより、年上の友人のようなフランクな接し方をしていたものだ。

 ゼリコ・ペトロヴィッチ前監督は[4-2-1-3]を基本陣形とし、ときには[4-4-2]で戦った。敵地での横浜FM戦、堀監督はアンカーに鈴木啓太を配置し、CBには濱田を初先発させる[4-3-2-1]の布陣で挑んだ。1トップにはリーグ戦で無得点が続くデスポトビッチを外し、豪胆に動き回る23歳のエスクデロ(現・京都サンガF.C.)を起用した。

 横浜FM戦は開始4分に早くも先制されたが、50分に追い付き、61分には梅崎司が左足で決勝点を奪った。リーグ戦初の逆転勝ちは、チームに自信と勢いを復活させた。口数の少ない指揮官は「選手の特長を踏まえてこのシステムに変えた。ユース出身選手が何人もいたが、トップに上がってから経験を積んだことが大きい」と15位に順位を上げたことに加え、まな弟子の成長も合わせて喜んだ。

 鈴木と山田直を出場停止で欠いた続くジュビロ磐田戦は、0-3で完敗。堀監督は「CKから失点するなど良い守備ができなかったが、ここから立て直す」と前を向いた。第32節・ベガルタ仙台戦は、互いに決定的なシュートを打てない中、0-0で終了。しかし残留を争うヴァンフォーレ甲府が磐田に敗れたため、この勝ち点1は貴重だった。

 残り2試合。勝ち点33の15位・浦和は敵地でアビスパ福岡と対戦し、勝ち点30の16位・甲府はアルビレックス新潟との顔合わせ。浦和は得失点差で甲府に16点もの大差をつけていた。両者とも勝利すれば勝ち点3差のまま最終節を迎える。仮に最終戦で浦和が負けて甲府が勝って勝ち点で並んだとしても、得失点差でひっくり返される恐れはまずない。福岡戦が残留への”大一番”となった。

 32分に中距離砲で先手を取られたが、ロスタイムに柏木陽介がこぼれ球をシュートまで持ち込むと、相手に当たってゴールイン。63分にはPKを獲得し、マルシオ・リシャルデスが左に決めたが、やり直しの判定。それでも背番号10は2度目も同じ左隅に狙って決勝点を蹴り込んだ。2-1。甲府も3-0で快勝したが、これで浦和の残留はほぼ決した。

 堀監督はアンカーを置いたように、攻撃面での積極性を保ちながらも守備のバランスを重視。無理やり攻めるのではなく、戦況を考えての攻撃を選手に強く訴えた。そのほか若手と中堅、さらに山田暢久や平川忠亮、坪井慶介(現・湘南)といったベテランを上手に起用した点も見逃せない。

 ナビスコカップは決勝で鹿島アントラーズに敗れ、天皇杯も準々決勝でFC東京に負けた。リーグ戦は5試合で2勝1分け2敗だったが、厳しい情勢の中、至上命令だった残留を成し遂げたことは立派だ。

「チームとクラブに関わるすべての人々の、降格させてはいけないという情熱が残留につながった」

 翌年、浦和はミハイロ・ペトロヴィッチ監督が着任した。堀さんはトップチームのコーチとして、あのモダンで攻撃的なサッカーを自らも習得し、完成形へひと役買った。

 また火急に事態に呼ばれた。あのとき以来の出番だが、今度は前任者のやり方を踏襲しつつ、いくらか守備に重心も置いた戦略で、巻き返しの後半戦に臨むのではないか。